「ふるさとを思う心」

2007/1/1 の紙面より

 

 新年明けましておめでとうございます。

 日本海新聞の地元鳥取県、島根県の皆様に私の随筆を毎週お届けするようになったのは平成九年の一月六日でした。

喜怒哀楽共に十年


 「一月三舟」とは、仏教用語で、一つの月でも、とまっている舟から見るととまって見え、北に行く舟から見ると北に行くように見え、南に行く舟から見ると南に行くように見える。一つのこともそれぞれに異なって受け取ることができ、いろいろな見方をすることができることのたとえとして使われています。

 長年の海外生活で見てきたことも含め、時にはふるさと山陰の心で、時にはパリ、ロンドン、ニューヨークの目で、そして時には永田町の目で、皆さんに私の思いをお届けします、とお約束して、十年があっという間に過ぎてしまいました。「旅は道づれ」という言葉がありますが、私にとって、この十年間は何十万人という皆さんとご一緒に喜怒哀楽を共にしながら、旅を続けてきた十年間でした。

 東京、横浜の選挙区の人たちと政治や社会を議論しながら、小選挙区、比例選挙区の他に私にはもう一つの「ふるさと選挙区」がありました。

 そういう運命と機会を与えていただいた神様と日本海新聞の皆さんに感謝しています。

 議員としての多忙なスケジュールの中で、原稿用紙に向かう時間を見つけることは決してやさしいことではありませんが、全国各地の読者の皆さんが私の背中にいつも温かい声援を送っていただいていると思うと、愚政、失政、悪政に向かって立ち上がる勇気が湧いてきます。

 新年もご愛読と、ご意見、ご批判を宜しくお願いいたします。

なぜ急いだ教育基本法改正


 さて、昨年を振り返って、日本にとって一番大きな政治上の出来事といえば、安倍内閣の誕生というよりは、教育基本法の改正でしょう。外国に対しては総理大臣が変わったということがトップニュースかも知れませんが、実体を見れば変わったことは一つもないのです。

 自民党の多選がまた続くことも、靖国参拝を言い続けて戦争に対する反省が欠けていることも、対米追従も、企業・財界優遇も、年金・消費税先送り体質も、二世・三世型陣容も、まったく見事に何も変わっていないのです。

 教育基本法案について、六七%の国民がその法案は成立させるな、もっと審議を十分にしてという意見を表明しているにも拘わらず、やらせミーティングで「官製談合」世論をつくりあげ、審議は打ち切り。なぜそんなに急ぐのか、憲法改正実現の地ならしが狙いなのか、教育のどこが本当に変わるのか、などなど疑問を大きくしただけではありませんか。

 憲法改正を基本政策とする政党なら、まず憲法という母屋(おもや)の設計や、玄関の向きなどと釣り合いが取れるようにしてから、基本法という離れを設計してゆくべきでしょう。

 基本法というのは憲法に従属し、憲法に最も近い距離にある、憲法に次ぐ最重要な法律とされ、いわば憲法が父なら教育基本法はその長男に相当します。ところが、それぞれの誕生日を調べると、昭和憲法は昭和二十二年五月三日に、そして現在使われている教育基本法はその前の三月三十一日に誕生しています。

 これを家庭に例えてみれば、長男がお父さんの前に生まれていることになります。では、お父さんが生まれる前に生まれていたその長男は、いったい誰の子ということになるのでしょうか。

 日本には長幼の序を尊重する伝統があり、「法治」国家というのであれば、こういう疑問や法律の乱れをもはや「放置」すべきではありません。

 占領軍という、当時は最高権力に相当する存在が、なぜ憲法改正の前に教育基本法を先行させたのでしょうか。

 これは私が国会図書館などの文献で調べた判断と推測に基づくのですが、天皇制を民主制に変えるというどこの占領軍にとってもかつてない難しい大改革をやり遂げるためには、男女共学という分かりやすいテーマで身近に民主主義を実感させること、そのために新しい教育基本法がまず必要と考えたのでしょう。

 しかし、今それと同じ手法をとる必要は全くありません。

 占領軍はどこにもいません。主権を持っている国民とその代表である国会という立法府があれば、今回は順序正しくやればいいことではありませんか。

子供に正しい手本示す


 審議を打ち切ってまで急いだり、やらせミーティングで国民を誘導したりするほどの中味もありませんでした。

 なにより、嘘でも世論を作る政府や、偽の卒業証書を渡す校長先生や、雇用が大切と言いながら正規労働を不正規労働に変えて表面的な失業率だけを偽装して下げてみせたり、暮らしを守ると言いながら税金を上げて企業への減税に回したり、郵政民営化こそ「改革の本丸」、反対する者は自民党から除名と公言し、票と議席を貰って一年すると復党させる、カレンダーが新しく変わるごとに、規則正しく国民を裏切る政党。そういう政府や政党や校長先生のいる国を、「美しい国ランド」という看板を掲げただけで子供たちが愛してくれる国と言えるでしょうか。

 「いじめ」はいけないと学校で教えながら、総理が集団いじめの先頭に立って日本中の子供と両親に見せつける。当選できなかったけれども、武部幹事長によるホリエモンの起用は、逆教育の効果を高める上で効果絶大でした。

 一年たつと、まるでビデオゲームのやり直しのように勝ち組と負け組みが仲良く座る。こういうお手本も大切だとは思いますが、やはり子供には良いお手本なのか悪いお手本なのかが分かりにくい。それをはっきりと分からせることのできる父母や先生が誕生するまでは、こういう小泉さんの集団いじめや、安倍さんの靖国隠しのような反面教師は差し控えること、そして、悪いお手本を示した人には教育に関する法律作成には一切参加させないことだと思います。

 どこの国でも、「愛国心」「郷土愛」は尊重すべきものです。「国を愛する」ことを強制するような教育ではなく、「愛せる国」をみんなで創る、それを教育と呼んでいるから、「国愛心」ではなく、「愛国心」と呼んでいるのです。

 「ふるさとを愛する郷土愛」も、小さいときから、家庭で、自分の学校、自分の町、そして何よりも毎日毎日自分が目にする山・川・森などの自然への愛情から生まれていくものです。

 子供たちの目はいつも大人の生き方、やり方を見ています。まず父母が、先生が、周りの大人たちがお手本を示すことです。やさしい愛情、仕事のきびしさ、困った人を助けることの喜びなど、子供たちの心の教育、人間教育につながる素材はいくらでもあります。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「『命』に国境なし」

2007/1/8 の紙面より

 年が改まる時、喜んでいるのは人間だけではない。

 日本では一年間の人間の生活を支配する暦を十二の動物が支配し、その年その年の主人役を演じ、年賀状やカレンダーに登場して、老若男女の目を楽しませる。

 暦の上だけでなく、私たちの日常生活の中にもしっかりと入り込んでいる。

 例えばキリンがビールを作り、ライオンが歯ブラシを売り、カメの子がタワシを作り、ゾウがお湯をわかし、タイガーがお湯をあたためる。クロネコがお歳暮を届け、ペリカンが荷物を運ぶ。いろんな動物が、日本ほど活躍の場を与えられている国は世界でも例がない。

 動物ばかりか、日本では植物も大活躍。山川草木すべてに生命が宿ると信ずる日本独特の自然生命観に基いて、山や川、森や木などが日本の各地で神様とされ、「鎮守の森」などは、古くからその村々で、地域を治め、地域を守る存在として大切にされた。それが結果として急速な近代化と開発の嵐の中でも、日本の環境をしっかりと守る役割を果たしてきたことは否定できない。

消防士が小鳥救う


 アメリカにはASPCAという小動物を二十四時間体制で治療、保護する救済施設があり、多くの生命が救われている。

 横浜市でも従来のセンターが手狭になったのを機会に、場所を移動し、最近の横浜市民のライフ・スタイルの変化を反映して、イヌだけでなく、ネコ、その他の小動物にまで対象を広げようという計画が予算化され、動物愛護者の期待が集まっている。

 私たちがニューヨークに住んでいた頃、晩秋のある日の夕方、セントラル・パーク南側の通り、五十九丁目を妻と歩いていると、人だかりが見えた。プラザホテルの近くの大きなポプラの、すでに葉が落ちてしまった枝で、何かの紐にでも足をからませたか、一羽の小鳥がバタバタ身をもがいて逃れようとしていた。

 人の集まりは更に増え、しかし、救ってやりたくても誰も何もできない。そこへ消防車がかけつけた。慣れた動作ではしごを伸ばし、あっという間に小鳥は若い消防士の手におさまった。その消防士が得意そうに集まっている人たちに向かって小鳥を見せる。

 一斉に大きな拍手が沸き立ったことは言うまでもない。そして私たちは、まるで私たちの手でその一羽の小鳥の命を救ってやることができたかのような喜びを分けて貰って、その場を立ち去った。

 日本でも、震災のときにイヌ、ネコが救われた話、昨年末にも二日がかりで一頭の犬が多くの人の協力で無事に保護されたテレビ・ニュース、新年には、軽井沢で買いものの時にネコを見失った人が八七日間探しまわり、ようやく再会できた新聞記事など。「これ以上の喜びはありません」と語るその人の言葉に多くの人が感動したに違いない。小動物にまで愛を注ぐことができるのは、その人だけの幸せではなく、そういう社会を持っていることが国の誇りであり、強さであり、子供たちへの教育でもある。

教育こそが武器


 にもかかわらず、最近の、人が人を殺す記事やテレビ画面の多さには、驚きや嘆きを通りこして怒りを覚える。昔は人間の倫理と常識のない人をさして、犬畜生のようだという表現があったが、今では犬に対して失礼な表現になっている。

 親が子の、子が親の、兄が妹の命を奪うなどということは動物の世界にもないことだ。学校教育を受けたことのない動物たちに対してさえも恥ずかしい行為が、日本で行われ、報道されていることを、私たちの先祖はどう思うだろうか。

 日本人は動物世界の最低種族になりつつあるのだろうか。

 財団法人・日本漢字協会が毎年末に公募で選ぶ「今年の漢字」が年末に発表され、「命」という字が選ばれた。飲酒運転や虐待、いじめ自殺など多くの命が失われたことへの反省、苦しみが潜んでいるのだろう。一方では皇室に新しい命が誕生したことを喜ぶ人びとの気持ちの反映でもあっただろう。

 その二日後には「防衛庁を防衛省に変更法案成立」と「教育基本法改正案の審議打ち切り、成立」の二つの見出しが新聞に踊っていた。その二つの法案は日本人の命を大切にするためなのかどうか、疑問を持つ国民は少なくない。

 イラクにおける戦闘で既に三千人の米兵と、五万人のイラク人の命が奪われ、それでもまだイラクの国内状況も国際関係も、一向に改善のきざしすらない。

 人を殺すのに道具まで作る動物は人間だけ。関係のない人間まで煽動して仲間の動物を殺すのも人間だけ。その理由が人間の文明社会を守るためと言うのであれば、その人間文明なる立派なものが、なぜ地球破壊への道を進んでいるのか。

 すべての生物、すべての生命を支えているこの地球の自然を守ることこそ、人間文明のかえがたい価値であるはずだ。

 自然と地球の前には国境も宗教の境もない。人の命を減らし合う闘争から、人間の生命を尊重しあう競争へ。それを地球上すべての人に分からせる唯一の方法は教育しかない。

 一九九〇年、南アフリカで武器を持って戦った黒人解放運動の政治指導者マンデラが長年の牢獄生活から解放された。

 再び彼とともに武力闘争に立ち上がる決意を胸にした群衆が歓呼の声で彼を出迎えた時、マンデラは次のように演説をした。「武器を捨てて学校へ行こう。教育こそが我々の武器だから」と。

地球の生命を守れ


 憲法議論と並行して日本が積極的に進めなければならないのは、世界で日本にしかできない、日本に最もふさわしい、「地球のドクター」というポストを確保することだ。一九九五年、日本が主唱し、出雲宣言で始まった宇宙衛星による「地球地図」が間もなく完成し、地球環境保護に貢献する。出雲市が創設した樹医制度が全国で一千人の樹木医に発展し、日本の森や樹木を守っているが、次は世界の森林と水を守ってくれるだろう。京都議定書も発効し、日本は地球温暖化防止の先頭に立つことになった。

 このような実績を踏まえれば、日本が農業国、森林国でありながら高い工業技術を持つ国として、地球の森林と水と大気を守る、いわば地球のドクターとしての地位をかち取ることは決して難しいことではない。自然を大切にしてきた日本人の民族的感性に最もふさわしい役目ではないか。

 日本は国境を越えた生命尊重の国、地球防衛への貢献という理念を掲げる唯一の国であることを憲法の前文にしっかりとうたう、そういう憲法こそ世界へ、そして次の時代の日本人へのメッセージとして残してゆくべきではないだろうか。

 一年を代表する漢字として「命」が選ばれ、教育についても議論が高まったこの機会を、命と教育についてすべての日本人が考える機会としたい、そう願っているのは私だけではないだろう。

(衆議院議員、元出雲市長)

「童謡に見る地方文権」

2007/1/15 の紙面より

 

 教育や地方分権についての議論が昨年ほど高まったことは戦後六十年の歴史の中でも珍しい。

 四月の統一地方選挙を目前にして、教育を論じ、地方分権を訴える声が町に溢れている。

文化を守り引き継ぐ人材


 出雲市長時代から私は、地方分権と同時に「地方文権」を訴えてきた。

 地方分権とは中央から権限・財源・人間を「三ゲン・セット」で地方に移すこと。言いかえれば、国家を効率的に運営するために、地方が本来持っていたものを中央に提供してきた権限・財源・人間の三ゲン・セットを、もうそろそろ地方に返還し、大政奉還を実現して、官僚ではなく住民自身が地域の経営に責任を持つ仕組に変えるという大事業である。

 しかし、「地方文権」は単なる地方分権を乗りこえて、その地方の歴史や伝統、環境をしっかりと守る文化を次の時代に引き継ぐこと。その責任を果す人材を育成できるかどうか、すべては「教育」にかかっている。

 衆議院の教育基本法特別委員会でも発言してきたが、ふるさとを愛する教育を充実するためには、いろいろな努力の積み重ねが必要だ。「地方文権」に努力したお手本の一つとして、「信州教育」として評価が高い信州長野県の教育の実績と特徴を、長野県立歴史館の文献などを中心に紹介してみたい。

蚕を育て、人を育てた信州


 信州における寺子屋の創設は室町時代中期にさかのぼるが、盛んになったのは江戸後期であり、幕末の信州の寺子屋は一三四一を数え、全国一の普及率だった。

 明治政府は、明治五年(一八七二年)に学制を公布して小学校教育を義務化したが、貧困な町村に対しては当時の内務省が「義務教育免除地区」に指定して、小学校の設置を免除した。

 長野県にも当然のことながら、財政貧困な町や村もあった。

 しかし、反骨精神と教育熱心の長野県では免除特権を申請した町村は一つもなく、わが国で全町村の義務教育化を最も早く実現したのは長野県だけであった。

 遠く離れた辺郷の秋山村でさえ、明治十三年(一八八〇年)には学校が設けられた。全国の町村で完全に義務教育が実現したのは昭和十六年(一九四一年)のことである。

 学校という施設を作っただけではない。信州の父兄は競って子供たちを学校へ行かせた。その結果、明治九年、長野県の就学率は、東京・大阪の五八・八%を上回って六三・二%に達して全国一位となっている。

 また、大正に入って、いわゆる大正デモクラシーの新しい思想のもとで、白樺派の教師たちによって自由主義的な教育運動の舞台となったのも信州である。

 その信州の教育を江戸後期の寺子屋以来財政面で支えたのが養蚕業だった。

 信州は教育を発展させた多くの人材に恵まれたという事実もあるが、信州教育の文献をひもとく度に感動するのは、金山にも銀山にも豊かな海にも恵まれない信州の人びとが、桑畑を増やし蚕を育てる養蚕業という地味な農業収入を、人を育てる教育に傾けた情熱である。

 日本の誇る「農本主義」の教育効果がここにもはっきりと表われていて、「農本主義」は何事につけ中央に依存しようとする安易な「ノホホン主義」ではなかったことに感動を覚えるのだ。

 この点、豊かな出雲平野と日本海と石見銀山に恵まれながらも、江戸末期の文献で「文をせず、武もせず、わずかにお茶ごころあるのみ」とやゆされた島根県とは好対照をなしていると言えば、島根県人には酷すぎるであろうか。

 農業収入を学校に、そして就学に充てる両親の貴重な汗が、子供たちの故郷愛につながらないはずがない。朝に夕に自分たちを育ててくれた信州の山々を眺め、その美しい風景がまた故郷への思いと感謝につながってゆく。

ふるさとを思い、歌う


 ふるさとにつながる童謡や唱歌は鳥取県をはじめ全国各地に多いが、とりわけ信州には多い。

 平成元年にNHKが「日本のうた ふるさとのうた百選」のアンケートを行った。その全国ベストテンの中に長野県出身者と長野の風景がかかわった曲が五曲も選ばれているのは驚異的である。

 全国十傑に選ばれたのは

 「赤とんぼ」

 「故郷」(高野辰之作詞)

 「夕焼小焼」(草川信作曲)

 「おぼろ月夜」(高野辰之作詞)

 「月の砂漠」

 「みかんの花咲く丘」(海沼実作曲)

 「荒城の月」

 「七つの子」

 「春の小川」(高野辰之作詞)

 「浜辺の歌」

 高野辰之には他にも豊田村の「春が来た」、そして横川・軽井沢間の碓井峠の秋をうたった「紅葉」などの小学唱歌もある。小学唱歌といえば、その草分けに位置する「蝶々」は高遠桜で有名な高遠町出身の伊沢修二が手がけた歌である。

 他にも、北安曇郡に生まれた浅原六郎が作詞した(長野県中野市生まれの中山晋平作曲)「てるてる坊主」、同じく浅原六郎作曲の「里の秋」、故郷の松代を同郷人と作詞・作曲した「お猿のかごや」、中山晋平が作曲した「肩たたき」「シャボン玉」、中野市が舞台の「あの町この町」、ヤギの飼育が盛んだった豊科町出身の藤森秀夫が作詞した「めえめえ児山羊」などがある。

 窪田聡は信州新町の父の実家に住んだ小学生の頃の思い出を散りばめて「かあさんの歌」を作詞・作曲している。

 北原白秋の作詞で長野市出身の草川信が作曲した「ゆりかごの歌」は、NHKが平成五年に発表した日本のお母さんが選んだ子守歌のベスト・テン一位となった。草川信は子供の頃、こたつの中で灰色の空から雪の舞い降る様子を見ていた思い出をそのリズムにしたのだという。

 信州を訪れ、北アルプスの山々の美しい姿に感動した米山正夫が作詞・作曲した「山小舎の灯」、南牧村出身のいではくが村の風景を作詞した「北国の春」、小海線を走る「高原列車は行く」、千曲川河畔の風景を詩情豊かに歌いこんだ「千曲川」と竹久夢路作詞の「宵待草」、安曇野が舞台となった「早春賦」、信濃町が舞台の「一休さん」、諏訪湖畔や八島湿原に咲き乱れるあざみの花に憧れの女性像を重ね合わせて書き上げた横井弘の「あざみの歌」など、童謡や唱歌以外にも、信州にはどの世代の人たちにも歌いつがれてゆく曲が多いのはなぜだろうか。

 それは、ただ単に信州の風景の美しさだけでなく、とかく理くつっぽいとよく言われる信州人の胸に信州教育が植えつけたふるさと思いの濃密さが作り出したものだろう。地方の心とその自然を一体として醸しだすものをこそ地方文化というならば、それはまさに教育だけがなしうる事業ではないか。

 「米百俵」を掲げながらも教育を増やすことの無かった小泉内閣。「桑百俵」とも言うべき故郷愛を黙々と実行してきた信州教育。地方の時代、教育の時代といわれる今、江戸と明治の故事に学ぶことが多いのではないか。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「安全は最大の福祉」

2007/1/22 の紙面より

 

 一見豊かになったと思える日本の中にも、意外に災害にもろい地域が全国各地に存在している。

 出雲市では、多くの市民が昭和三十九年に起きた災害を「三九災害」と呼び、今でもその時の消防団の活躍ぶりとともに、災害のすさまじさを生々しく記憶している。言葉の響きは「サンキュー災害」でも、感謝などできない災害である。

強くやさしい街づくり


 市長選の私の公約は「強く やさしい 出雲市」だった。「人は強くなければ生きていけない。しかし、やさしくなければ生きている価値がない」という私の好きな言葉をそのまま公約にした。

 「やさしさ」とは福祉と教育の充実。

 では、「強い出雲市」という言葉を街づくりに当てはめるとどうなるか。

 他市との「競争に強い」街づくりがその一つ。今、日本のすべての都市が、都市と都市の競争、「都市間競争時代」を迎えている。

 もう一つの強さは「災害に強い」、安全に住むことのできる街というのが、その最低条件となる。安全対策に関する施策は、何をおいても最優先で行わなければならない。市民の生命はもちろん、田畑や財産を守ることはお「役」に立つ「所」、役所の最も重要な役目だからだ。

 六千人の死者を出した十二年前の阪神大震災のその朝、私は出雲市の市長公邸で目をさました。猫のモモが私のそばから飛び降りて、すばやくベッドの下に避難した。モモがこういう動作をするのははじめてのことで、ゆさゆさ揺れる本棚をながめながら不吉な予感がした。

 ちょうど妻が娘のところへ出かけて留守の時だったから、一人で朝の支度をしはじめたところへ、錦織克徳助役から電話がかかってきた。幸いに市内や周辺では大した事故もなく、消防車、救急車も出動しなかったという報告でひと安心。

 しかし、テレビが伝える現地の災害は広がるばかり。神戸市が海を埋めたり、開発工事をやり過ぎたりしたことが災害を一層大きくしているのではないかという思いがふっと頭をかすめた。

 次の電話は日下(くさか)明消防長から。「みんなが救援に行かせて下さいと言っています。出動命令をお願いします」。まず山本良次隊長、大国幸雄副隊長と三人の隊員が乗りこみ、一・五トンの水を積載したタンク車で現地へ向けて出発した。NHKのニュースに一番乗りの消防車として映されていたのは出雲市消防車だった。やまたのおろちの川として知られる斐伊川の堤防の上の道路を走り、中国山脈を駆け抜けて行った消防署員の心意気に感動した。

 ところどころ寸断された道を踏みこえて、ようやく真夜中に到着した出雲消防隊は、長田地区を中心に自車のタンク水を放水、同時に人命救助活動を行った。タンクの水がなくなると神戸港まで行き、消防艇からの給水を受け、タンクを満水にしては市内に帰ること往復十回。

出雲市民きびきびと


 翌十八日、青年会議所のメンバーが市役所にやってきた。準備が完了したので、炊き出しチームがこれから出発するという。ある会社の社長は消火器百本を買い集めて同行した。

 女性フォーラムの会員は街頭に立って募金をはじめた。

 北村春江芦屋市長からの電話を受けて、市役所の職員は一斉に電話や街頭で、食料、飲料、衣類などの供出を市民に呼びかけた。広報車が先行し、「十分後に市の車が受け取りに来ますから、皆さん十分以内に用意をお願いします」と前触れして回ったから効率は抜群。

 夕方六時には二台のトラックが救援物資を満載し、松田秀夫助役と職員が、市民が見送る激励の声を背に夜の闇の中を突っ走った。

 いつもは誠にのんびりとお茶をのんでいる出雲の人たちが、あのときは本当にきびきびとよくやっていたと、そのときの光景を鮮やかに思い出しながら、今でも感謝し続けている。

 「いるやろ?」「なんぼでも」

 これは一月十七日の早朝、大阪市から、災害の中心地神戸の消防担当者へ、応援の消防車が何台必要かを確かめるための電話のやり取りである。ある新聞に紹介されていた、このわずか九文字の短い会話。それが、急速に被害が広がっていくその朝の様子と、災害担当者の緊張感をよくもの語っている。

 二度とあってはならない十二年前の悲惨な体験は、日本の防災対策に生かされているだろうか。残念ながら、まったくといっていい程に進んでいない。

 アメリカに比べて日本は、公共投資の比重が高すぎるという批判があるが、その批判は必ずしも正しくない。

 アメリカと違い、日本には災害に危険な地形や都市が多いから、財産や生命を守るための「防災投資」が必要になってくる。基幹道路の整備にしても、ただ単にモノやヒトを早く動かすという目的だけでなく、救援隊や自衛隊を現地に急行させる防衛、防災の観点から、計画を前だおしで重点的に完成させるべきだ。

役人から財布取り上げて


 危険な都市にはもちろん首都圏東京も入っている。国税の五割以上を払っている首都圏の企業と住民を守る公共投資、すなわち「防災投資」をなぜ政府はもっと積極的に進めようとしないのか。

 今夜仮に震度七、震度八の地震が首都圏を襲ったらどうなるか、考えて見よう。世界各地からの救援隊がやってくる。しかし、どこに着陸できるのか。二十四時間使えるのは関西空港だけだ。そこから東京を目ざすのに東名高速はつぶれている、新幹線は止まっている。救援隊も、救援物資も東京にはやってこない。

 東京の安全確保は日本全体の機能を維持するのに欠かせない。そのためには、一日も早く羽田を二十四時間国際空港として整備すべきだ。その羽田空港も破壊されたらどうするか。命綱は一本だけでは安心できない。成田も二十四時間空港にする。首都圏三千万人の命綱としては、横田基地を返還要求し、羽田−成田−横田の三つの「田」の三角形で守ってこそはじめて安心ができる。

 防災のためには空港という「点」だけでなく、救援隊、救援物資を運ぶ「線」が必要になる。例えば、羽田を中心にして考えれば、環状七号や環状八号道路は震度六で使用停止になる。地上の施設より地下の施設が耐震度にすぐれていることは阪神大震災で明らかになっている。環七、環八の地下に高速道路を建設することだ。家屋移転の必要もないし、国有地の地下だから買収費や立ち退き補償金もいらない。羽田から品川区、世田谷区、杉並区、練馬区、文京区、足立区などを結ぶ「エイト・ライナー」とか「メトロ・セブン」という地下鉄建設計画は直ちに地下高速道路建設に切りかえるべきだ。

 犯罪から身を守る防犯、災害から財産と生命を守る防災、他国の攻撃から日本を守る防衛。防犯、防災、防衛の「三防」。全国各地で安心して家族が毎日を暮らせる、「安全こそ最大の福祉」である。

 そのためのおカネは、

 「いるやろ?」「なんぼでも」。

 目的が失われたり、ずれてしまっているムダな事業にしがみついたり、高額な旅費で税金をムダ使いしている知事や役人から財布を取りあげて、しっかりと将来の安心に備えなければならない。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「証券戦国時代」

2007/1/29 の紙面より

 

 日本史の中で多くの変化が短い時間に集中的に起きたときがある。織田信長が天下を統一するに至る戦国時代と呼ばれる百年間もその一つである。

 しかし、近代史の中で、政治、法律、社会を含む一体的総合的な日本の大改革が、しかも五年から十年という超短期間に行われたのは二回しかない。それは「明治維新」と呼ばれる明治天皇と下級武士集団による明治改革であり、もう一回は第二次世界大戦後の米国による日本占領期、マッカーサー司令官と米国のリベラル派軍人による昭和改革である。

間接金融から直接金融へ


 その昭和改革は多岐多方面にわたり、憲法、人権、教育、農業、地方自治、産業、警察、資本構造などの大改革が一斉に行われた。

 その一つに金融・銀行・証券の世界がある。銀行が兼営し、独占していた金融の流れが明確に二分化され、商業金融及び産業への短期金融は銀行に、産業界による長期資本調達、例えば株式や社債の引受や売買はアメリカの制度に合せて証券会社の仕事とされ、証券取引法六十五条という垣根で銀行と証券の仕事は分離されることになった。

 意気込む証券界と防衛を急ぐ銀行界。その主戦場は証取法第六十五条だった。証券引受業務は証券業界に帰属し、銀行は参入できなくなったからである。間接金融だけが業務として残された銀行にとっては、これから大きく発展することが約束されている直接金融のライセンスは、のどから手が出るほどに欲しい権利だった。

 戦後の証券界の目ざましい飛躍の出発点はここにあった。

フェアな競争社会


 当然のことながら競争も激しくなる。

 東の山一、日興に対抗し、大阪拠点の野村と大和が、東京に本社を移し、野村は主として三井グループを、大和は住友を背景にして、三菱をバックにする日興、安田、富士に支持される山一を相手に、企業の株式発行、債券発行の主幹事の座をめぐって闘いを開始したのが昭和三十年代。なかでも関東出身の日興、山一と、関西出身の野村、大和との間には社風の違いもあって、対立意識は尖鋭だった。

 他社との幹事競争には勝者があれば敗者もある。しかし、いったん主幹事銀行が決定すれば、全員がシンジケートに参加し、副幹事、幹事、メジャー、マイナーとそれぞれ責任に見合った汗をかき、シンジケート団全体としての評価が高まることに満足する、その積み重ねだった。紳士ばかりの世界とは言わないが、自分の努力不足を棚に上げて他者の中傷をしているような会社や担当者は、いずれマーケットのどこかで静かに処分を受ける、「因果応報」の摂理が生きている世界だった。

 その証券戦国時代、証券界内部の覇権をめぐる争いと同時に、証取六十五条という垣根をこえて証券業務への進出の機会を虎視たんたんと狙っている銀行界との緊張関係が常にあった。

 私が、日興證券に入社した一九五九年、高度成長に沸く日本企業は大量の設備資金を必要とし、証券会社はそのための債券引受・販売に苦労していた。当時は、銀行対証券のいわゆる「銀・証戦争」がはじまったばかりの頃で、企業の世界で、世界的な資金調達の潮の流れは、銀行融資に頼るいわゆる間接金融の時代から、直接金融、つまり、企業が株式や債券を自ら発行して資金を調達する時代へと大きく変化しつつあり、その津波は日本列島にも押し寄せていた。

 当時の証券界が、手数料収入の多い株式営業にばかり注力し、債券をコツコツと地道に個人の投資家に販売する実績を必ずしも積んでいない点を、当然のことだが銀行は集中的に批判していた。独占的な権利にあぐらをかいて、労多くして益少ない債券個人消化に汗かかず、引受責任額の九割以上を銀行・保険会社の大口だけに販売して、引受手数料はそっくり頂く、これでは「眠り口銭」ではないかというピンポイント攻撃を受け、証券界の落城は時間の問題とさえ見られていた。

債券投資へ大きな水路


 私は債券部に配属され、債券の引き受け、売買を通して、高度経済成長を支える産業界に必要な資金がどのようにして集まり、どこへ、どのようなコストで配分されるのかを見ていた。

 当時上映中だった洋画のタイトルを使い、「深く静かに潜航せよ」というカバーをつけたメモを、上司の許可も得ずに部長や常務にまで自分で配って歩いた。

 横尾課長からは注意されたが、叱(しか)られることはなかった。担当の金子常務や部長の求めていた解決策だったからだ。

 全国各地に百の組合を作り、毎月一億円しか売れていなかったのが毎月三億円と一挙に三倍に増えた。

 その制度は「マル優制度」となって正式に認知され、証券会社を通じる個人の債券買い付けを便利で有利なものにして、証券界全体の個人向け債券販売額を三倍に増加させた。

 翌年、債券を投資信託に衣替えさせる、ボンド・オープンを提案した。今のマネー・ファンドの第一号である。担当の常務は、「債券は債券そのままで売るべきだ」という古風な考えで、債券を新しい商品に組みかえて多くの人が買いやすくすることが必要だと考える新人類的な私の提案には反対だった。私は自分のメモを直接に専務と社長に届けることにした。

 次の週、部会で常務はこう発言した。「私は気に入らないが、社長や専務は、面白い、やるべきだという意見だ」。債券だけを組み入れた投資信託「ボンド・オープン」は、利子の再投資が一口一円から可能という、世界の投資信託で最初の画期的な構想を組み入れて、完全複利の有利さが加わり、爆発的な人気を呼んで、販売額は十倍となった。つまり毎月の個人対象の販売額は二年間で三十倍となって、大きな氷塊が崩れ、銀行預金という水路に加えて、もう一つの債券投資への大きな水路が開通した。

 証券界の発展への鍵、そして銀行の攻撃から企業を守る武器、証取法第六十五条はその後も証券界のみの権利として残されることになり、「銀・証戦争」はその後、銀・証の垣根なき欧州市場へと、舞台を移していった。

 今、世界的におカネの流れが変わろうとしている。コペルニクス的大変動の中で、経営者の資質や経営方針の優劣で、あっという間に大波に飲みこまれる会社も出てくる。

 マル優制度の成功に次ぐボンドオープンの成功で意気軒昴な日興債券部に翌年、突然のように遠山直道という名の取締役が入ってきた。

 その人事には創立者遠山元一会長と興銀出身の吉野岳三社長の戦略が込められていた。

(次週に続く)

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「副社長、欧州に散る」

2007/2/5 の紙面より

 

 日興證券の創立者遠山元一会長が後継者として選んだのは、東大経済学部を卒業した三男の直道さんだった。長男の一行氏はすでに音楽評論家としての地位を築かれていたし、次男の信二氏もまた指揮者として活躍されていたからだった。

「ジャパン・ファンド」


 今、日興證券が大きく揺れている。日本の証券・金融の地図が大きく変容し、日本の経済と私たちの暮らしにも影響が及んでくる大変化が迫っているときだけに、日興證券が何を目指し、日本の証券を代表してどのように戦ってきたかを振りかえってみることは、決して無駄なことではないと思う。

 債券部の二年間が終わり、遠山直道常務の米国赴任とともに、私は調査係兼秘書として、ニューヨーク勤務となった。

 米国の資金を、資本不足の日本に誘導するにはどういう方法があるか。太平洋のかなたにある島国日本の一つひとつの会社を米国の投資家が研究し、投資するにはあまりにも情報、しかも英語化された情報が乏しい。

 遠山さんと日興国際部がニューヨーク事務所開設に合わせて発表したのは「ジャパン・ファンド」だった。一つひとつの株式を選んで投資するのではなく、選択と売買を日米の運用専門家に任せる。

 ジャパン・ファンドという形態から、ソニー、ホンダ、東京海上、日立、東芝、松下へと、米国人の投資が大河となって滔々と日本に流れ、日本製品への信頼を高め、日本の輸出を後押しした。

主戦場にパリ支店開設


 次に舞台は欧州に移る。

 故ケネディ米大統領の最大失策が、「金利平衡税」。アメリカのカネを外国には使わせない。ウォール街を高い税のウォールで囲い込む新法で、米国資本市場は鎖国時代に入り、ロンドンが脚光を浴びることになった。

 世界の金融機関は一斉にロンドンに事務所や支店の開設準備に入り、私も一九六七年にロンドンに赴任した。

 成長のための資金がほしい。その多くの会社の中に川崎製鉄があった。アメリカでドル資金調達で川鉄の窓口銀行となったのはウォール街名門の一社、ファースト・ボストン社だった。

 欧州の仕事は欧州の投資銀行を主役にと考えた日興が、川鉄ドル建欧州債の主幹事と予定したのはロンドンのシティの名門、ヒル・サミュエル社だった。

 この世界の仁義として、ドル通貨を使う起債は米国の銀行の仕事だと主張するファースト・ボストン社の役員は、ウォール街から日興を締め出すとまで圧力を加えてきた。

 通貨が何であっても、欧州という起債の場所を使う以上は米国の銀行が筆頭幹事ではおかしいと主張するヒル・サミュエル社。通貨か、起債地主義か。

 遠山さんと私はその交渉に何度もニューヨークとロンドンを往復した。ウォール街のファースト・ボストン本社で会談を終え、エレベーターに乗り込む私たちへのファースト・ボストン社の最後通牒とも思える言葉にも、遠山さんは屈しなかった。新しい欧州市場も大切だが、NY市場から退却するわけにもいかない。

 遠山さんはNY、ロンドン両支店の幹部の前で若輩の私を指名した。

 「君が指揮をとれ。私が責任をとる」。

 交渉の末、ヒル・サミュエルを筆頭に置き、ファースト・ボストンは事務と条件交渉の窓口を担当することを条件に次席幹事を受け容れ、起債は成功した。

 日本の証券の仕事は、米国から欧州にと完全に主戦場を移していた。ロンドンに加えて、私はパリ支店開設を提案していた。国際的なカネの動きがまだ遅れていたフランスに拠点を置くのは、銀行では東銀、三菱、証券では日興だけだった。

 証券には信用が大切と、パリの目抜き通りに決めたのも遠山さんだった。

 パリはおカネの取引の中心ではないにしても、人の出入りの中心では断然トップ。国際会議、観光、買い物。英国やドイツへ出張する要人たちが、金曜日と土・日曜日の三日間をパリで過ごす。その時間に得られる情報量と親近感は比較にならないし、欧州の各地を空と陸の両面からカバーできる。

 日興證券が欧州の格付トリプルAクラスの公的機関の日本主幹事を独占できたのもパリ開設の成果だった。

 一九七四年のオイルショックで中近東がクローズアップされた時も、ロンドンに比べて時差で一時間有利なパリの拠点が大きく寄与した。ロンドンを拠点とする米国や日本の銀行との競争の中、アラブ・ダラー債の第一号ホンダ債、続いて第二号の東芝転換社債を実現したのはいずれも日興だった。

雪は降る、遠山さんは来ない


 アダモの歌う有名なシャンソンの一つ、「TOMBE LA NEIGE」は、「雪は降る あなたは来ない」ではじまるが、私は「雪は降る だれも行かない」ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイスランドへ冬になると度々出かけていった。素朴な北欧の友人たちがそういう私を歓迎し、温かく迎えてくれた。

 毎年二月になると、遠山さんはニューヨークのジャパン・ファンド役員会の帰路、欧州各国の取引機関を訪問され、私は常に随行した。

 ある年の二月、本社の幹部も同乗し、私の運転でパリからルクセンブルクに向った。途中、シャンパーニュ地方にさしかかった時、遠山さんがシャンペンの老舗会社の前で車をとめてくれと言われた。「奥さんには毎年パリでお世話になり、お誕生日の二月六日にはいつも君はこうして私と旅に出ている。申しわけない。今年のお祝いは私にさせてくれ」。

 その時に遠山さんから頂いた六本のシャンペンを、妻は今でも一番の贈り物だったと喜んでいる。

 欧州で最上級トリプルAの格付を持っていたのは、欧州石炭鉄鋼共同体とよばれるECSC、欧州投資銀行EIB、そしてオスロ市だった。日興證券はECSC、次いでEIBの日本における主幹事証券の指名を受け、最後に残されていたオスロ市の主幹事証券の指名も受けることになった。オスロ市長から指名を受ける儀式が三月のはじめに行われることになった。遠山副社長にオスロ市で合流するために、私はひと足先にパリからストックホルムに入った。

 雪が降り続いていた。夕刻、ロンドンから一本の電話が入った。ロンドンで乗り継ぐはずの遠山さんの飛行機がフランス西部のナント市の上空で衝突、生死の状況、未だ不明という内容だった。

 降り続く雪の中を、私はフランスへ帰り、夜の闇を一人車を走らせて現地へ向かった。

 「雪は降る あなたは来ない

 白い雪が ただ降るばかり

 白い雪が ただ降るばかり」

 遠山さんを主軸に世界の投資銀行を目ざした日興證券の夢は消えた。

 それからしばらくして、オスロ市長の指名確認書が富士山のふもとの遠山さんの墓前に丁重に届けられた。

(衆議院議員、元出雲市長))

 

「江戸の風」

2007/2/12 の紙面より

 

 十二年前の春、三月二日を最後に、私は出雲市長を退任した。二度の選挙で市民に支持され、自民党をはじめ社会党、公明党、民社党の協力を得ながら市政を運営した六年間は、苦労がなかったわけではないが、幸せで実り多い歳月だった。出雲市議会の全議員から市民を代表しての感謝状を頂き、ふるさとを旅立ったのが三月三日のひなの節句の日だった。出雲市民と、市議会、市職員に感謝したい。

「都知事選に出馬」


 私は、市長という立場にありながら、中央の政党や政治のあり方について、しばしば発言してきた。そのたびに、それぞれの政党の立場で思いはあっただろうに、市会議員たちは私の言動を温かく「無視」してくれた。そのことを、とりわけ感謝したいと思う。首長の自由な発言に対し、どこの自治体の議会がこれほどの寛容さを示し得ただろうか。

 市長という仕事を通して学び得たことは多かった。「強者の論理」ではなく「弱者の論理」、利益を追いかけるカネではなく、幸せと生きがいにかわってゆくカネ。自分が喜ぶのではなく、人に「喜ばれる喜び」。人を押しのけて自分が先に幸せになるのではなく、「最もよく人を幸せにする人が、最もよく幸せになる」。市民のささやきつぶやきを、明日からでも施策に取り入れて実行できる醍醐味。市民の誰にでもわけへだてなく接することができる仕事冥利……。私は市長という仕事にほれこんでいた。

 そして出雲市の封建的、保守的、閉鎖的といわれる土地柄も変わってきた。

 しかし、日本は変わらない−。

 東京は、国際社会の影響を受けて、産業と金融の空洞化が進んでいる。一方では人の高齢化とまちの高齢化が同時進行し、これからの東京の舵取りは難しくなる。しかし、地方の時代を発展させるためには、誰かがこの仕事に意欲的に取り組んでいかなければならない。

 長く続いた官僚都政打破を目ざして、大学生と市民レベルの草の根運動が、すでに二年前から東京で始まっていた。それが、九四年の暮れには署名運動となり、九五年二月七日に、六つの市民団体の代表十五人が三万七千人の署名簿を持って出雲入りし、その後さらに署名は増えて八万人に達していた。

 東京という日本最大の地方自治体の行政が変わらなかったら、日本の改革はないという思いに駆られて、私は市長を辞任し、その春四月の東京都知事選に出馬する決意をした。

行政は最大のサービス産業


 どの政党も支持しないという人が六〇パーセントの東京で、このような市民運動が急激に高まったことに感激した。

 その選挙では予想しなかったことが起きていた。応援に駆け付けてくれた人たちは、出雲市だけでなく、栃木、茨城、埼玉、神奈川、そして、広島、鳥取、島根、沖縄、青森、山形、岩手といった、東京から見れば遠隔の地に及んでいた。

 北海道から沖縄まで、各地の人が東京に向けて手紙を書き、電話をかけ、手弁当のボランティアで多くの方が上京し、応援にかけつけてくださった。

 四国の坂出市からもご夫婦で、大阪市からは父と娘で、そして山形県の酒田市商工会議所婦人会に至っては、百人の会員が交代で上京。同じく応援に来ていた栃木県の女性はいきなりビラを渡されて、「さぁ、あなたも手伝って」と言われてびっくり。しかし、そのまま一日中熱中してしまった人もあったという。

 サリン事件で不穏な情勢の中、極真空手の若者たちが私を日夜守ってくれた。

 日本各地からの応援団と地方なまりに囲まれ、これはまさに「選挙の甲子園」だと感激しながらの毎日だった。

 当時、私が発表した都政のいくつかを、私の著書『東京「新思考」宣言』のなかから紹介してみよう。

 一つは、「行政は最大のサービス産業」を東京でも実現する。

 次に行政改革。規則、条例等の総点検を行い、不要になっているものを廃止する。外郭団体、特殊法人等は、国に先立って、これもまた総点検、見直しを行い、「小さな役所、大きなサービス」の実現を目ざす。

 三番目は都市環境の整備。百年間に東京が半分にしてしまった川や池という水面を復元させる。

 それから、ゴミ対策。十一のゴミ処理工場をそれぞれの区で建設することになっているが、整備されている良い住環境を工場建設で破壊するのはどういうものか。可燃ごみをすべて固形燃料に変え、電力に変えるべきだ。

 そして羽田空港を二十四時間使用可能な国際ハブ空港にする。世界のどこにもない、二十四時間空港への「極短」なアクセスを持つビジネスセンターとなれば、東京の価値は見直されるだろう。

都政解放の春となるか


 産業や金融の空洞化に襲われている日本はこれで対抗することができる。さらに、京浜、京葉の両工業地帯、そして丸の内から霞が関に至る行政サービスセンターの「黄金の三角地帯」が形成される。

 この二十四時間空港を通し、夜の間に世界中から野菜、肉、魚、果物が迅速に入り、台所の物価に貢献する。

 そして、いざという災害時。東名高速が破壊され、新幹線も動けないという状態で、各国の救援隊や救援物資はどこから来るのか。羽田しかない。羽田二十四時間空港こそ、三千万首都圏住民に安心を与える最大の防災対策。「安全こそ最大の福祉」なのである。

 世界の四大都市と言われるニューヨーク、パリ、ロンドン、東京。その四大都市の一つひとつに生活し、勤務してきた経験を東京の都市経営に活かしたい。

 私の好きな鬼平、長谷川平蔵が青春時代を過した本所深川に妻と猫のモモちゃんとともに居を移し、天を信じ、人を信じ、東京の空の下に立ち、訴えた。

 「夢と安心を次代に残そう」「江戸のやさしさを守り、東京の強さを活かそう」「あなたの一票が東京をつくる、あなたの一票が日本を変える、あなたの一票が二度生きる」と。  わずか一か月の短い戦いに私の夢は実現することはなかった。出雲市長選を二度戦い、その後の選挙でも勝ち続けたモモちゃんの一度だけの敗北だった。

 しかし、八十三万の都民が地方の一市長に投票して頂いた、江戸の温かい春の風を今でも私は忘れることはできない。

 東京が選んだ知事は世界博中止だけを掲げた青島幸男氏だった。都政について準備のない本人もビックリ、なるはずがないけれど面白いから一票を投じたという人たちもビックリ。ウッカリの一票がビックリの知事、ガッカリの四年間。

 この「ウッカリ、ビックリ、ガッカリ」現象は大阪のノック知事に、そして事情は少し違うが長野の田中知事に、宮崎のそのまんま知事にと流れを引いている。

 首都東京に熱い戦いの季節が再びやってくる。

 「政党決戦」か、「首都決戦」か。

 主役は政党なのか、都民なのか。

 誰が立ち上がろうとも、高慢、傲慢、放漫な都政から都民を解放する、都民主役の戦いであってほしい。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「所得格差と教育格差」

2007/2/19 の紙面より

 

 安倍内閣になってからのはじめての予算委員会で質問に立った。山積する問題は多く、とりわけ「格差」や「社会保障」「年金」をめぐる国民の関心が高く、世論調査でも四十%。これに対し、安倍総理は一月二十五日の施政方針演説では格差という言葉にさえ全く触れることがなかった。総理が演説で強調し、熱意を示した憲法問題には国民の関心はわずか四%。

 この国民と総理の「認識格差」が知れわたり、内閣支持率が発足四ヶ月で半減するという異常な状況となっている。

減少する地方の所得


「所得倍増」を掲げたのは池田勇人内閣だった。今は「安心倍増」を掲げる安倍晋三内閣。「安」心を「倍」増するから「安倍」内閣、「安倍心増」内閣という売り込みだったが、読むと書くとは大違い。企業に減税、国民には増税と、安心が減って心配が増える、これではまるで「アベ」こべのアベ内閣ではないか。

 私は総理に所得格差、地域格差、教育格差についての認識をただした。

 教育予算は国の予算で見る限り、米・英・独・仏の平均が五%であるのに対して日本はわずか三・五%と、格段に低い。

 欧米の教育予算との差、GDPの一・五%を金額に換算すれば、七兆五千億円、つまり、消費税の三%以上に相当する膨大な「教育目的税」を、「第二の消費税」として両親が負担してきたことになる。

 しかもこの「第二消費税」という家計負担は収入や消費に比例するのではなく、どの家庭にも子供が生まれる結果、収入の少ない家庭ほど負担感が重い。

 加えて大都市と地方との所得格差の問題がある。県民一人当たりの県民所得統計は平成十五年度までしか発表されていないが、小泉内閣誕生から二年間に東京を一〇〇として地方県の所得がどのように低下したかを見ると、

 青森県     五五五一

 島根県・鳥取県 六〇五五

 長野県     六七六四

 「中央から地方へ」というかけ声とは逆に、所得は「地方から中央へ」と逆流し、わずか二年間に五%減少して、単純に推計すれば、その後の三年間に島根県の所得は五〇を割っているだろう。半分の所得で東京と同じ学力の子供を育てるということは、地方の両親の教育負担が約二倍となっていることを意味する。

 島根県では大学・短大進学者三千百人のうち八五%が県外へ出て行く。県外の特定大学へどうしても行きたいという学生も当然あるが、多くは県内に収容能力がなく、志望学部がないためである。島根県ほどではないが、東北、山陰、四国、九州の過疎県も大同小異である。

 これらの地域は、かつての高度成長期においては、若者を都会の労働力として送り出す人材供給県だった。今は進学という名のもとに再びそれが繰り返されている。高度成長の時と異なるのは、今は子供が二人程度しかいない点である。もし、彼らがそのまま都会で就職すれば、地方には親と年寄りしか残らない。

 一八才までの子供一人当たりの生育・学習費を二千万円とすると、島根県の場合、二千七百人が県外へ進学するから、五百億円の投下資産が毎年奪われていることになる。

財政残って日本滅ぶ


 都会への進学に伴って生じるもう一つの現象が、仕送りという形での家計からの流出である。島根県に例をとると、毎年二百億円以上が「仕送り赤字」として県外へ流出し、資産損失五百億円と合わせて「教育赤字」は年七百億円に達する。

 島根県の年間生産農家所得が二百億円だから、「教育赤字」の額は地域経済にとって軽視できない。

 大学・短大の大都市偏在が地方の若者の都会流出をもたらし、産業近代化を阻み、所得格差を生み「教育赤字」を増大させる。この「教育赤字」を抱えたままで地方は自立できるはずがない。

 現状を踏まえ、教育のあるべき未来像を描きたいなら、教育の「機会均等」だけではなく、教育の「負担均等」を重視すべきではないか。財政の健全化は子供の健全化より優先しなければならないのか。「財政残って日本滅ぶ」という政策は、本当に正しいのか。

 教育を重視する内閣という看板を掲げ続けるなら、地方分権という名目に隠れて地方に負担を押しつけるのではなく、国がクチを出すならカネもしっかりと出すべきではないか。

 地域格差だけでなく、同じ地域内でも所得格差が教育に与える悪影響も顕在化しつつある。

 貧富の格差が都市圏住民の間でも、そして中央と地方の間でも拡大してゆくことが教育にどのような悪影響をもたらすのか。貧富と教育の関連について示唆に富む研究が昨年発表され、欧米各国の主要紙が取り上げている。

「底上げ」会議に冷水


 アメリカン大学のエコノミスト、トム・ハーツ氏が四千人を対象に三十年間の追跡調査を行った結果では、アメリカの社会では貧富格差の固定化が進み、その主たる原因は教育だという。

 低所得層の家庭で生まれた子供が、米国における所得上位五%の階層に行ける確率はわずか一%であるのに対し、上位五%の家庭に生まれた子供が成人してその階層に入る確率は二二%、つまり低所得家庭児の二〇倍も高い。しかもこの高所得−高教育−高所得−高教育という循環図式は再生され、固定され、その結果、不健全でもろい社会をつくりだす危険につながることは容易に想像される。

 そういう時だからこそ、「社会的差別のない社会の実現」と「経済的格差縮小」の原動力が公教育の充実にあることを強調し、予算的に裏付けなければならない。

 「成長あれば格差なし」というノーテンキなスローガンのもとに、「底上げ会議」が設けられたが、その「底上げ」会議にもう一つ冷水をあびせるような米国の動きがあった。

 二月六日にネブラスカ州のオマハ市で経済人を前に、バーナンキFRB議長は米国における所得格差の拡大傾向に警告を発し、格差是正のための政策として教育の重要性を説いている。

 金融政策を司るFRB議長が貧富の差という経済社会問題に公の場で切りこんだ講演は、一九八〇年代のボルカー元議長時代以来、記録がないほどに異例なことである。

 バーナンキ議長によれば、所得格差は最近顕著になった現象ではなく、少なくとも過去三十年間兆候が見られてきた。例えば年収の伸びを比較すると、最近二十七年間に、トップ一〇%の高所得者は三四%、中間層は一一・五%、最下位一〇%の低所得層はわずか四%と格差は拡大している。

 二十年近い経済成長の恩恵を受けている成長社会のお手本のような米国においてすらも、安倍内閣の「成長あれば格差解消」とは全く逆の、「成長あれば格差拡大」という結果が出ている。その貴重な経験を日本の政策にまじめにとり入れる方向で政策を転換すべきではないか。

 この問題は引続き今週も予算委員会でとり上げようと思う。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「仏手(ぶっしゅ)、日本の出番」

2007/2/26 の紙面より

 

 九月十一日テロを契機に始まったイラク進攻はその理由としたテロとの関係を裏付けることに失敗。大量破壊兵器の発見にも失敗。繰り広げられているのは、死傷者続出と国土破壊。それは治安活動を超えた戦争そのものであり、皮肉なことに、大量破壊兵器発見を目指したアメリカ自らが大量破壊兵器そのものになっている。

民主主義の押し付け


 イラクにおける戦闘で既に三千人の米兵と、五万人のイラク人の命が奪われ、それでもまだ国際緊張も、イラクの国内状況も、一向に改善のきざしすらない。

 今ほど世界の指導者といわれる人たちの英知と勇気が必要な時はない。真の意味で文明社会が野蛮社会や帝国主義時代と異なるのは、人が人を殺さないことである。国家のため、国益のため、あるいは「人間の自由」のためと称して、他国に恐怖や貧困をもたらすことが文明といわれるはずがない。

 まずアメリカのやり方が強引すぎる。米軍兵士が星条旗をサダム・フセインの立像の顔にかぶせたシーン。宗教もまったく違う他国の国旗を押し付けるあの行為ほどグロテスクで、アメリカという国の傲慢さと、恐ろしい一面を世界中に知らしめるのに効果的なものはなかった。

 アメリカは幸福を売り込みに出かけて、逆に反発を買う結果を招いているのではないか。イラクに「自由」をもたらすことができると内外に主張し、「解放軍」のイメージを持とうと努めているが、浮かび上がってきたのは、「民主化」と「解放」を、無理矢理武力で押し付ける傲慢さだ。

 すべての国にはそれぞれの民主主義がある。NATO軍の最高司令官と、レーガン政権では国務長官を務め、共和党のタカ派として知られるアレキサンダー・ヘイグ氏でさえも、「米国が、民主主義を受け入れる土壌のない国に、民主主義を植え付けようとして何度も失敗してきた事実を、米国は忘れてはならない。民主主義を押しつける政策の限界を知るべきだ。すべての国にはそれぞれに適した独自の民主主義モデルがあるからだ」と述べている。

アラブ諸国は日本に親近感


 日本は第二次大戦の悲劇を最もよく知る国の一つ、そして原爆を体験した唯一の被害国。日本は、「普通の国」以上に戦争の脅威と平和の大切さを声高に語れる、世界でたった一つの国ではないか。

 日本はそのような国だからこそ、戦争を回避するためにあらゆる外交と国際協調のための先頭に立つべきだろう。

 欧米の大国はいずれも歴史上、中東を中心としたイスラム文化圏において、植民地化や戦争を招いたかつての当事者であり、それに比べて、経済大国といわれる国の中で幸いにも日本だけがそのような歴史を持ってはいない。アラブ諸国に対して、日本は加害者となったことは一度もなく、武器を生産する充分な能力を持ちながら武器を輸出したこともない。

 その点において日本は、歴史的に加害者であった欧米列強とは一線を画してきている。それどころか、アラブを中心としたイスラム諸国には、日本は自分たちの国と同様に被害者であったとの見方さえ存在している。「日本だけが分かってくれる、日本の言うことなら耳を傾けてみたい」という声を、ベイルート所長だった私は何度も聞いてきた。

 その一つの例を挙げれば本田と東芝のアラブ起債である。二十五年前、石油価格が高騰し、世界のカネが中東産油国に集中したときに、日・米・欧の先進諸国は資金が涸渇し、一斉に「アラブ詣で」を始めた。

 クウェートの政府金融機関やサウディアラビアとベイルートの民間銀行が、数多くの提案の中から取り上げたのはいずれも日本の企業、本田と東芝だった。

 このような日本に対する好意と親近感に対して、日本は充分に感謝を尽くし、適切な対応をしてきただろうか。

「イスラム開発国際会議」を


 「戦争の配当」か、「平和の配当」か。二十世紀の戦争と違って、今日では戦争は「負の配当」しかもたらさない。日本は、「平和の配当」に世界中を参加させるような、例えば、アラブ地域における公共事業や失業対策に投資し、アラブと他地域との貧富の格差を縮めるような世紀の大事業に取り組むべきではないか。

 経済格差の是正を主目的とする「イスラム開発援助国際会議」の創設を日本が提唱すべきだ。このような国際会議を提唱することは、アラブとの歴史におけるいくつかの戦争と過失、いわば「歴史の不良債権」に苦しむ米国と英国には期待できない役割である。

 クウェート、サウディアラビアを中心とする淡水化事業や、エジプト、パキスタン、スーダン、イラク、アフガンなどへの農業開発支援、中小企業育成、中小規模投資案件の推進、教育環境と医療体制の充実、情報技術関連など、こうした会議が成果を挙げることになれば、欧米先進諸国とイスラム最貧国等との経済格差が縮小され、危険なテロ行動へと走らせるマグマを鎮め、いわば「欧米諸国へのセーフティ・ネット」を構築し、先進国の自由と平和を守ることにつながる。

 アフリカや中近東湾岸の地域は、全体として欧米やアジアの地域との所得格差が大きい。その上に、アフリカ内、中近東内の地域内格差が大きく、その格差が世界経済の成長とグローバリゼーションの過程で縮小するどころか固定化したり拡大したりしているから問題だ。

 同一国内の貧富の格差も大きく、いわば三重の格差の呪縛からのがれられないままでいる。格差の大きな社会では民主主義を受け入れる土壌そのものが失われ、危険の芽を増殖する土壌となる。

 アラブ、イスラエル、アメリカ、こういう一神教の国同士の憎悪や対立を解消するのは容易ではない。だからこそ、宗教的にも伝統的にも多神教土壌の国日本が積極的な役割をはたすべきだろう。

 「イスラム開発援助国際会議」を欧米の国に先駆けて日本が提唱することを、六年前に私は予算委員会で小泉総理に提案した。小泉総理が採用したのは私の提案ではなく、ブッシュ大統領からの日本自衛隊派遣という提案だった。

 米国では昨年の中間選挙の民主党勝利に見られるように、世論は大きく変化している。イギリスもイラクから撤兵の方針に転換した。

 一方では、中国がアフリカ・アラブの国に資金援助で影響力を増大させ、資源支配外交で着々と実績を挙げているが、日本としてそれに対抗する効果的な外交戦略も急がなければならない。

 今からでも遅くはない。「イスラム開発国際会議」を直ちに提唱して日本の顔を出す、カネも、智恵も、クチも出す。

 イラクへの自衛隊派遣など、どこの国にもできることはよその国に任せる。ブッシュ大統領から話が違うと責められたら、総理は「アイ・アム・ソーリ」と言ってこの構想を掲げて説得する。

 「鬼手仏心」という日本の思想を説明し、ブッシュ大統領を「仏手大統領」に変身させることができれば、世界に歓迎される日本外交の大勝利となるだろう。

 日本の総理の出番ではないか。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「感謝を込めて」

2007/3/5 の紙面より

 

 「一月三舟」という題で時事エッセーを書きはじめて、早いもので十年が終わりました。私が国会へ入ってからも十年。ということはとりもなおさず、私の目だけではなく家族や友人の目、そして「一月三舟」の読者の皆さんの目で私は国の政治や経済の動きを見てきたことになります。

 この十年間、貴重な紙面を私のためにとお考え頂いた日本海新聞の吉岡社主をはじめ社員の皆さんにまず感謝いたします。

 そして、何よりも毎週「一月三舟」をお読み頂き、ご意見をお送り下さった鳥取、大阪、東京を中心とする読者の皆さんに心より感謝申しあげます。

経済、行政、政治の目で


 議員としての多忙なスケジュールの中で、原稿用紙に向かう時間を見つけることは決してやさしいことではありませんが、全国各地の読者の皆さんが私の背中にいつも温かい声援を送っていただいていると思うと、愚政、失政、悪政に向かって立ち上がる勇気が湧いてきました。

 一つの月でも、止まっている舟から見ると月が止まっているように見え、北に行く舟から見ると月も北に動いているように見え、南に行く舟から見ると南に動いているように見えます。「一月三舟」は仏教の言葉ですが、このように、一つのこともそれぞれに異なって受け取ることができ、いろいろな見方をすることができる例えとして使われています。

 私は経済・金融・証券の世界で三十年間仕事をしてきましたが、その三十年という期間の三分の一、十年ずつをヨーロッパ、アメリカ、日本のいわゆる三大経済圏に住み、多くのことを学ぶことができました。日本という国を見る時にはアメリカの目だけでなく、ヨーロッパの国がどういう思いで見ているかを合わせて考えないと失敗することを現場で何回も経験しました。アメリカを見る時には日本の目だけでは誤った判断をすることもよくあります。これも「一月三舟」の言う三つの舟と言えるかもしれません。

 日本国の通信簿は、経済一流、行政二流、政治は三流、これが国際社会の長年にわたる評価でした。私はどういう運命のめぐりあわせか、一流から三流まで三つのすべての世界を経験することになりました。経済、行政、政治の三つの舟の一つひとつに乗るという貴重な経験を与えられたことになり、当然のことですが政治の目だけで見ることと、経済や行政の目で見る判断とは異なってきます。

喜怒哀楽を共に十年


 時にはふるさと山陰の心で、時にはパリ、ロンドン、ニューヨークの目で、そして時には国会の議席からの目で、皆さんに私の思いをお届けしますとお約束して、十年があっという間に過ぎてしまいました。「旅は道づれ」という言葉がありますが、私にとって、この十年間は何十万人という大勢の皆さんとご一緒に喜怒哀楽を共にしながら、旅を続けてきた十年間でもありました。

 拙文をかえりみることなく、他党の議員の事務所へもこの連載をお届けし、小泉総理をはじめ与野党四百人の議員に毎週お読み頂いてきました。

 私の立場上、どの党の方にも喜ばれたり、賛同していただける内容でないことは百も承知で、連載の題名どおりの「一月三舟」の寛容さで、目を通して下さっているのでしょう。失礼、無礼の数々をこの紙面を借りてお詫びしておきたいと思います。

 毎週ご愛読下さった皆さんに大変残念な思いですが、新聞の編集方針もあり、「一月三舟」をお読み頂くのはこの三月で最後になります。

 私がこの欄をお引き受けし、書き始めたのは東京・世田谷区に住み、その選挙区で勝利し、国会議員となってすぐのことでした。世田谷区には東宝の撮影所があり、東宝村といわれたぐらいに映画関係者が多く、スポーツ人、文化人も多く住んでおられました。

 はじめての選挙区でしたから、多くの方にご挨拶、お願いにあがりました。ジャイアンツの槙原投手が小さな赤ちゃんを抱いて出雲以来の再会を玄関で喜んで頂いたり、同じ年にベストドレッサー賞を受けた三國連太郎さんにお会いしたり、大学生の頃から憧れのスター、八千草薫さんが庭先で仕事をしておられたり、いろんな貴重な出会いがありました。

 八千草薫さんは私の秘書が「一月三舟」のコピーをお届けすると、「私には、これを読ませて頂くことで日本の政治を一番分かりやすく勉強できます」と、喜んで受け取って頂いていました。

深刻化する「格差」


 夜明け前が一番暗い。第二次世界大戦が終わり、「冷戦」という名の第三次世界大戦も終わりましたが、新しい世界秩序の夜明けはまだです。

 その暗い谷間にあって、いま日本は三つの潮流に洗われています。一つは深刻な社会と経済の低迷、二つ目は日本と日本人のあり方をめぐる混迷、三つ目は既成政党に対する不信と政治の停迷です。

 約十年前、冷戦の終結をうけて、「世界の潮流 日本のうねり」と題する書を上梓しました。世界の潮流が変化してゆく中で、日本にも「うねり」ぐらいは訪れることを願ったからです。

 しかし、私の願った「うねり」は訪れず、むしろ「ねじれ」に一層の拍車がかかったという感が深いのです。

 二月十四日、二月二十日、三月一日と、異例なことかもしれませんが、三週間連続して私が安倍総理はじめ関係大臣に質問したのは、東京と地方の県の間に広がる「地域間格差」についてでした。

 今、日本はこの「地域間格差」と、同一地域内でも所得格差が広がってゆく「地域内格差」の二つの格差が同時併行で進行するという、世界のどこの国も経験したことのない複雑で深刻な危機に直面しています。それにもかかわらず、世界を知らず、苦労も知らぬ、二世三世の政治家が益々多くなるという異常な事態を私は憂えています。皆さんも同じ思いではないでしょうか。

 十年間に、百万字を超える原稿を、定められた日に一回も休むことなく書き続けられたのは幸運でした。

 私の執筆に根気よく付き合ってくれた猫のモモちゃんはなくなりましたが、十年間健康であり続けたという点では妻の欽子に感謝をしています。

 私はヨーロッパやアメリカにも長く暮らしていましたし、仕事がらアフリカ、中近東、アジアの国や都市も多く見てきましたから、日本と外国のどこが違っているか、他の人よりは少しよく見えると思いますし、外国人の言い方、考え方が少しはよく分かると思います。  ご愛読に重ねて感謝しながら、これからもどこかの紙面をお借りして、私の思いを皆さんにお届けしたいと思います。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「日本の経営者魂」

2007/3/12 の紙面より

 

 最近の入札談合や贈賄、脱税・粉飾決算など、やり切れない思いをしているのは私だけではないだろう。

 国家も企業も経営責任が厳しく問われている時、思い出すのは経済界の先輩達から教わった数々の言葉である。

 大学を卒業して三十年間、私は世界の各地で尊敬できる多くの経営者を知ることができて、幸せだった。東京大学の教室での授業とはまた違った意味で、それは生きて動いているドラマの中での名優たちのセリフそのものだったからだ。

日本経済救った決断


 武田薬品の欧州向け転換社債の仕事で、大阪道修町の武田本社に三か月滞在したことがあった。一九六三年の秋のことだった。その年の夏七月にケネディ大統領が金利平衡税という方法で米国金融市場を封鎖し、実質的に日本の企業を締めだし、日本経済にパニックが起きた。資本不足の日本は資本を求めて欧州を目ざさなければならない。多くの企業が一番乗りを争っている時、私たちは最も有力視されていた武田薬品の武田長兵衛社長に、大阪の「吉兆」へ招待された。

 その席で武田さんが私たちにこう言われた。「ヨーロッパの投資家が、武田の決算を日本式だけでなく外国式でも発表してくれというのは当然のことだ。私は受け入れることにする。日本を代表して第一号となる以上、最初の会社が失敗したから後から出かける会社が不利になった、などと言われることのないよう、これを契機に武田は更に努力して、外国の金融機関の期待に必ず応える。このことを主幹事の日興證券からしっかりと外国側に説明しておいてほしい」と。

 七月のケネディの封鎖宣言からわずか二か月後の、偉大なる大阪商人の果敢な決断だった。

 第一号となった武田薬品の外債発行は、ルクセンブルグ取引所上場、外国式会計監査、欧州型の引受シンジケート団の編成など、多くの工夫が実行され、その後発行された日本の外債のお手本となり、封鎖されている米国市場をよそ目に、ヨーロッパから大量の資金が日本に流入する先導者となった。

 一人の経営者の決断と強い責任感が日本の経済を救ったと言えるだろう。

人を幸せにする人が幸せに


 日興證券京都支店のお世話でオムロン立石の創立者立石一真社長が、本邦企業の欧州での株式発行第一号実現を目ざして、度々ヨーロッパにおいでになると、その随行と通訳は、当時ロンドンにいた私の役目だった。その立石さんが座右の銘とし、色紙にもよくお書きになったのが、「最もよく人を幸せにする人が、最もよく幸せになる」という言葉だった。別府市と京都市に身体障害者の人ばかりで経営する「オムロン太陽電機」を創られたときも、「人を幸せにする人が幸せになる」からだと答えておられる。

 このあたりは「最もよく人を不幸せにする人が、最もよく幸せになっている」ような最近の時世とは全く違っていた。

 一九七一年の秋、パリ支店長の私が、クレディリオネ、ソシエテゼネラル、パリバ、ロスチャイルドなどのフランスを代表する銀行・証券・保険会社グループを率いて日本を訪れた時に、関西にも足を向けた。当時のフランスは、日本への投資意欲はあっても知識は乏しく、とりわけ東京に比べて大阪の会社についての情報が不足していた。

 門真市にある松下本社を訪れた私たちを樋野専務が出迎え、松下幸之助会長が経営理念について話された。

 「経は行なり」。「経」とは会社を経営する「経」。「行」とはお坊さんの行なう修行の「行」。会社を経営する経営者の心は、修行の「行」の心がけで行なわなければならない、こういうお話だった。

 その時の私は経営者という立場ではなかったから、松下さんのお話がよく分からなかったが、出雲市長に就任して地域の経営者という立場になって、この言葉を繰り返し思い出し、妻と二人で一日目からの行を始め、二一六〇日の行を終えて退任した。

業績悪化明言する勇気


 岩田弍夫(かずお)さんが副社長に就任し、のちに社長に就任した頃の東芝は、オイルショック後の不況の真っ最中で業績の悪化が続いていた。

 私がパリ駐在国際金融部長でベイルート事務所長を兼務している頃、岩田さんは資金調達に心労を重ねておられた。有利な転換社債という方法で資金調達を、しかも創立百周年にふさわしいクリエイティブ(創造的)な方法でやってみたいというのが岩田さんの条件だった。

 主幹事の野村證券でなく、副幹事であった日興證券の法人部が、パリの私に岩田さんのボールをパスして、私はアラブのオイルダラーを対象にした提案を用意して東京へ向かう飛行機に乗った。

 転換社債は、現状は利益が出ていなくても来年、再来年からは良くなるだろうというタイミングだからこそ投資家が買ってくれる商品である。

 そこで私は岩田さんに訊ねた。

 「来年の業績は今より良くなりますか」

 「残念だが今より悪くなる」

 「それでは投資家が買いません。二年後はどうですか」

 「二年後はもっと悪くなる」

 岩田さんがあまりにも正直なことを私に率直に話されるのに驚いた。

 「それじゃ益々売れませんよ。ところで五年後ならどうですか」

 「五年後にはきっと良くなる、私は確信を持っている」

 私は岩田さんの「確信」を「担保」として頂くことにし、世界で初めての、十五年満期の転換社債の最初の五年間にだけ保険を付けた転換社債を低金利で、つまり東芝には普通の転換社債より有利なコストで発行することができた。

 世界ではじめての、金利という概念そのものが否定されているアラブ世界でのドル建転換社債発行の調印式をロンドンで終えて、白いホップの花が咲くケント州をドライブし、昼食を道ばたのパブでとることにした。チキンをかじりながら岩田さんがこう言われた。「資金集めのために何十年と苦労してきたが、今度だけは何の心配もしなくて済んだ。ありがとう」と。過分なお言葉だった。

 岩田さんの見通しどおりに業績は向上し、投資家も喜び発行会社も成功した資金調達例としてハーバード・ビジネススクールの教材にも採用され、岩田さんは終生そのことを誇りにしておられた。

 粉飾どころか、悪い時には悪いと明言できる勇気。その勇気を失った経営者が増えてしまったことを、岩田さんは嘆いておられることだろう。

 古い体質を一掃し、新生東芝を作り出すという使命感に燃えていた岩田さんは就任後わずか四年間で三十七人の関連会社の社長の首を切った。「俺は首切り岩だ」と宣言するほどの荒療治を断行し、業績は見事に急回復した。岩田社長の長期政権を社内外の誰も疑う人がいない時に「人の首を切って自分だけ残れない」と、四年で社長を退任してしまった。

 権力欲も名誉欲も薄かった岩田さんは、会長も四年で辞めてしまった。

 自分の役割を知ってその通りを生きぬいた人だった。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

「日本を変えよう」

2007/3/26 の紙面より

 

 昨年秋のモロッコでの国際会議に続いて、三月の十五日からは南アフリカのケープタウン(喜望峰)で開かれている世界銀行グループの会議に出席することになった。

地の果ての世界会議へ


 九十か国二百人の議員が参加した会議は英・仏語だけで行われ、日本語通訳がないということも日本の国会議員出席のハードルを高くしたと思うが、日本の出席が私一人だったことは、とても残念だった。

 一番大きな障害は、乗り換え時間を含め、往きに二十九時間、帰りに二十六時間、往復合計五十五時間という地球二周分に相当する遠さにある。

 しかし、同じ条件の韓国からは四人の議員が参加していた。前々回、前回のパリ、ヘルシンキの同じ会議には二人、四人と出席した日本議員が今年はゼロということを世銀東京事務所長ダリー氏からの電話で知った。九十か国の大会出席リストにJAPANという国名がない、などというのは恥ずかしい。なぜ世銀第二位の大株主である日本から、政治・軍事主体の国連と対比すれば、いわば国連のおカネと経済の部分を担う世界銀行国会議員ネットワーク会議に誰一人出席できないのか、しないのか、させないのか。

 日本という国は、カネだけ出せば、出資だけしていれば、それでいいだろうという国際的無責任国ではないこと、カネも出せばカオも出す、口も出して一緒に責任も取る、そういう国であることを示すべきだ。

 私は党の了解と、河野衆院議長の許可を頂き、出かけてきた。

 まさにここケープ・タウンはアフリカ最南端の地の果て、インド洋と大西洋が出会う、世界中の海岸線の中で最もすばらしいケープ(岬)と言われる。

 地の果てという言い方は北半球の先進国のパリ、ロンドン、ニューヨークから見るからで、逆にケープ・タウンから見れば日本などは地の果てということになろうか。

 その地の果てから、もう一つの地の果てジャパンを見ると、色々な思いがこみ上げてくる。この十年三か月の間、読者の皆さんに世界のいろいろな所からこの「一月三舟」の原稿をお届けしてきたが、その最後の稿を地の果て喜望峰からお送りすることになろうとは夢にも思っていなかったことだった。

変わらぬ政治の実態


 日本は今、知事選挙をはじめとする統一地方選挙たけなわ。しかし、これで日本の政治は本当に変わるのか。

 この一年を振り返って、日本にとって一番大きな政治上の出来事といえば、安倍内閣の誕生だろうが、政治の実態を見れば変わったことは一つもないのだ。

 対米追従も、企業・財界優遇も、年金・消費税先送り体質も、二世・三世型陣容も、まったく見事に変わっていない。

 「東京から日本を変える」と石原知事。これはニューヨークからふるさと出雲へ帰り、地方の市長を終えて、東京へ向かい、十二年前の都知事選に官僚出身多党相乗り石原信雄候補とタレント青島幸男候補に対抗して立候補したときに、私が訴えた言葉だった。

 幼児教育のために打ち出した認定こども園も、出雲市が十五年前に従来の国の認可保育所と別に日本で最初に実施した「認定」保育所の名称や構想を真似たもの。初挑戦ならともかく、都知事を既に八年勤め、週に二日の出勤とか、実質勤務時間に換算すると三年分の仕事に八年分の給料を受け取った知事が、今ごろ「東京から日本を変える」と言うのもしらけてくる。せめて八年前の就任の時に語るべき言葉だった。

 東京都政は日本のどこを変えたのか。

 東京発の銀行課税は裁判で敗れ、罰金として、低金利で苦しんでいる都民の税金を使い、銀行からいったん徴収した税金に高金利をつけて銀行にお返しするというお笑い。

 東京が世界の金融センターになれる道を自ら閉ざし、ツケを都民にまわした形になっている。

 ホテル税もその一つ。地方の時代を迎え、自治体同士が助け合うならともかく、東京にすべての権限が集中しているために地方から出かけざるを得ない地方の知事、職員からホテル税をとるのは、最大の自治体による弱小自治体いじめにも似て、片山鳥取県知事などから批判の声があがったが、例によって傲慢・無視。

 分かりやすく言えば、自治体の自主的課税という考えを、江戸時代の関所感覚か、雲助感覚でとらえていただけのこと。

詭弁、強弁こえて正直に


 政治の世界は二世・三世の「親下り」が益々増え、役所の世界では「天下り」が止まらない。お上指導の押しこみ、押しつけ型天下りは絶滅すると政府は大見えを切る。これがまた噴飯もの。

 絶滅するというから今までどのぐらいあったかときかれると「なかった」と答弁。「なかった」ものをどう絶滅するというのだろうか。ゴキブリもいないのにアースを買う奥さんはいない。

 安倍総理と渡辺行革大臣の、無いものを絶滅するという詭(き)弁で貫こうという姿勢は、ブッシュ大統領が、イラクに大量破壊兵器が「ない」のに「ある」という強弁で「絶滅」に出かけた派兵の論理と全く同じ。たった一つの違いは、「ない」ものを「ある」と言うブッシュと、「ある」ものを「ない」と言い張る安倍内閣の違いだけだ。

 「ある」ものを「ない」と通り抜けようとする安倍内閣のレトリックには、二世・三世の甘えをこえて、多選党の傲慢さがある。

 そしてわが国の報道メディアにも問題がある。行政・福祉・医療・介護など市場原理に傾くことの恐ろしさを今ごろになってまことしやかに説く新聞。

 なぜ郵政民営化の時に、民営化すべきものとすべきでないものを区別できるようにしっかりと書かなかったのか。せめて、あの市場原理好きのアメリカでさえも民営化をなぜ二度廃案にし、民営化すべきでないと結論を出したのかを、国会で指摘されていることも添えて、読者に正直に伝えるべきではなかったのか。

 国会の「審議の低調」を嘆く報道よりも、まず自らの「報道の低調」を反省すべきではなかったか。

 「あるある」ねつ造や、新聞による盗作だけが問題ではなく、「ある」ものを「ない」で通させる、「ないない」おもねり報道も問題ではないか。

 さてアフリカで初めて開催されたケープ・タウン会議には、世銀・国際通貨基金・アフリカ開発銀行のトップが初めて勢ぞろいする力の入れ方。その三日間の白熱した会議が終わり、気候変化に対するおカネの世界での関心は更に高まった。

 地球を守るための努力とそのための世銀グループの予算のあり方に、私は「選択と集中」を提案し、予算執行にはより一層の透明性と説明責任を求める流れが強まった。

 京都議定書への期待は強く、世界の二大公害国としてアメリカと中国を名指しで、京都議定書への協力が欠けていることに反省を求める決議が採択されることになった。米中二大国への色々な立場がありながらも決議へ踏み切った各国の議員たちの発言に感動しながら、日本の私も賛成の票を投じた。

 現地には日本領事館がありながら、誰一人この会議を傍聴していなかった。

 来年には世界主要国サミットが日本で開かれるが、それに先だって京都議定書第二ラウンド、アフリカ開発会議など、日本を舞台にする国際会議が目白押しで、いやおうなしに日本が一層注目され、地球問題が緊急課題となってくる。

 カネは出す、カオも出す、クチも出す、ヒトも派遣する、一緒に責任も取る、そういう日本に変身しなければ、世界から信頼される国とはなれない。

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学生たちの政経手術  2007年9月3日

 

六月に横浜市立大学へ出かけ、大ホールにいっぱいの国際総合科学部一年生、二年生の学生たちに「日本の政経手術」というテーマで一時間半の講義をした。

 

私が日本国の医師ならば

 

 和田淳一郎教授からの依頼で、次のような順序で、学生たちに話した。

 1、はじめに

 2、国際化の流れの中で

 3、日本最優秀企業出雲市役

   所の秘密

 4、日本の不景気の謎

 5、減税か 増税か

 6、経済改革

 7、所得格差と人権格差

 バージニア大学の経営大学院の客員教授を引受けて二十年、中国の南開大学の政治学部客員教授を引受けて十年、短い期間だったが韓国の明知大学の客員教授も引受け、それぞれの国の学生に話してきた。

 どこの国でも私の話に食い付くように聴き入り、そのあとでの鋭い質問が飛んできて、私にとっても、生きた学びの材料となって、それを日本に持ち帰るのがいつも楽しみだ。

 横浜市立大学では、私の話のあとで、それをどのように理解できたかを自らの頭で考えなさいという意味で、和田先生と私の考題が学生たちに与えられ、短いレポートの形式で提出しなければならない。

 日本の若い人たちの政治や政治家に対する無関心さを選挙のたびに知らされてきた私は、学生たちのレポートに大きな期待はしていなかったが、それは全く私の不明のいたり。学生たちの自分たちの国に対する強い思いに、感動すら覚えるほどだった。

 考題は、もし自分が「日本国の医師」として手術を依頼されたら、(1)中小企業税(2)高速道路無料化(3)年金革命(4)金利手術(5)人権手術(6)役所手術 (7)空港政策 の中から、どれを最初に取り上げるかというものであった。

 もちろん日本国の改革、革命には医療、憲法、教育、農業など多くの課題があることは誰でも知っていることだが、すべてを一度に取り上げるわけにはいかない。

 聴講した二六五人の学生のうち、年金革命を選んだ学生が最も多く九九人、次いで高速道路無料化を選んだ学生が五七名、役所手術が四四名、人権手術が二五名、空港政策が一九名、金利手術が十二名、中小企業税が八名、、その他一人であった。

 現代の学生たちの考えを知る一助として頂きたいという思いから、そのいくつかを紹介してみたい。

 

高速道路を開放せよ

 

 まず、高速道路無料化について4人のレポートから。

「私が日本国の医師として、最初に執刀したいと考える手術は高速道路無料化で、その理由は二つある。

 第一の理由は、流通コストの削減が実現すれば、企業の利益を減少させることなく消費者の手元での商品の価格を下げることができ、物がよく売れ、経済が活性化すると考えられる。

 第二の理由は、地方経済の活性化が期待できるからだ。無料化により、地方の交通の便が良くなり、東京、大阪などの大都市一極集中が緩和され、地方経済が活性化すると考えられる。」

 「私がもし、日本国の医師であるならば、まず高速道路無料化を取り上げたい。そもそも高速道路というのは公共財であり、国民が支払う税金を投じて建設されたものだ。それを使うときになったら金を払えなどというのはまったくおかしな話である。週末に親の介護をしに故郷に向かう長男・長女は年々増加しているし、政府はそれに合わせた措置をとるべきだ。

 また、高速道路の無料化を通して、輸送産業を今以上に活発化させ、日本の流通と経済の発展を図るべきだ。高速道路の無料化が、若者の起業対策、雇用対策として極めて効果的だ、という先生の意見にも頷ける。

 高速道路の無料化によって起こる影響はひとつではない。様々な面で国民に好ましい効果を与えてくれる。現在の高速にお金を払う制度を改め、無料化を推進する政策が早急に取られることを期待したい。」

 「高速道路は私たち国民の税金によって建設され、アメリカやドイツではすでに無料化が行われている。日本が世界で初めて試みる政策ならかなりのリスクを伴うので、躊躇するのもわかる。しかし、成功例があるのだから実行してもいいと思う。

 また、起業、若者雇用に効果を与えるだろう。この政策を実施することにより、経済効果をももたらすなら、実施しない理由がないのではないか。」

 「高速道路を無料化することによって、様々な付加価値が生まれる。直接的に金銭面で利用者に優しいのはもちろんのこと、雇用面にまで、その効果が及ぶのだから、国家財源が減ったとしても国の循環という面から考えると、絶対に実施すべき政策である。」

次に、中小企業税について3人のレポートから。

 

 中小企業を強化せよ

 

 「高い中小企業税は日本の障害といえる。なぜなら、日本の企業のほとんどは中小企業であり、中小企業に高い税金をかけると中小企業の活動が減り、経済の動きがにぶくなってしまうからである。」

 「経済の二重構造といわれるように、大企業と中小企業との間には、資本力や技術、生産性、賃金などにおいて、大きな格差がある。また、中小企業は、大企業の下請けとなったり、大企業から資本を受けて系列化されることも少なくなく、バブル崩壊後、下請け企業は親会社の経営不振により、経営の危機に陥っている。

 大量生産、効率化を追求してきた企業が不振に陥る中で、高品質、高機能で勝負することが求められるが、それには、中小企業の長年の努力によって培われた、経験や独創的な技術が不可欠である。だから、日本の経済が活性化するためには、全企業の約99%を占める中小企業の復活が欠かせない。」

 「自分がもし中小企業税の改革をするのであれば、まず、大企業の下請けをして、原料高、製品安で苦しむ中小企業に資金を貸す銀行に対し、大企業の法人税から徴収した税金から補助金を出します。その事により、中小企業が使用できる資金の量を増やし、他の事業に手を出せるように補助します。このようにして、企業の系列から外すことで、今まで景気の調節弁として機能したために景気変動の影響を直に受けてきた中小企業を支援し、日本の高い技術力の価値をグローバルな市場内で、適切に判断してもらい、中小企業の価値を高めます。また、あえて、中小企業金融公庫や国民生活金融公庫を使わないで民間の銀行に使わせることで、民間銀行に長期的な顧客を提供します。」

(次号に続く)

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

学生たちの政経手術(続)  2007910

大学生たちが日本の政治や経済をどのように変革したいのか、前号に引続き、その提言を紹介したい。

このレポートは、横浜市立大学の一年生、二年生が私の講義を聴いて、もし自分が「日本国の医師」として手術を依頼されたら、(1)中小企業税(2)高速道路無料化(3)年金革命(4)金利手術(5)人権手術(6)役所手術(7)空港政策の中から、どれを最初に取り上げるかというものであった。

前回は、(1)の中小企業税と(2)の高速道路無料化について、学生のレポートを皆さんにご紹介した。いずれのテーマに関しても、既存の制度の問題点を指摘し、自分なりの改革案が示されていた。

 

消えない年金を消費税で

 

今回はまず年金革命について

「現在、日本は少子高齢化が急激に進んでおり、年金問題は大きな社会的問題の一つとなっています。現在の年金制度では、毎月お金を払い、消費税も何のために払っているのか不安になります。それならば、消費税に年金を組み込んでしまった方が、たとえ10%になろうと、将来自分に返ってくるんだからと思えるでしょう。国民一人ひとりが、そういった気持になれば経済活動も活発になり、日本全体が活気づいていくように思います。」

「今、年金問題(政府のお粗末な年金記録管理)が生じているし、少子高齢化による年金制度の崩壊により、日本人は将来への不安を隠しきれないため、労働世代のやる気の消失や政治への不満も高まっている。

 年金をあてにできないため、自分が蓄える他ないので、消費が抑えられて企業の生産が落ち込み、それによって所得が減少することで消費がさらに抑えられる悪循環に陥っているとも思う。

 また、年金制度の問題は日本の経済全体をも圧迫している。団塊の世代の退職による、年金を支える世代の減少のために行われる増税は、典型的なものである。したがって、私なら、国民の将来をしっかりと保障し、今の生活に集中できる環境作りの第一歩として、まず年金革命を取り上げるだろう。」

(4)金利手術について

「私は最初に、金利手術を行いたい。日本がお金があるのに景気が良くない原因として、低金利政策がある。せっかくの人々が稼いだ資金も低金利ゆえに諸外国に流れてしまうという事態が起きている。

 しかし、金利が低いというのは同時に投資がしやすいという面もあるはずなのに、実際には活発な投資は見られず、昨今「景気回復」と言われているが、国民としてまったく実感が湧かない。このアンバランスな状況は何なのだろうか。

 現在では、金利を下げれば、必然的に投資が増えるという状況ではなく、グローバル化が進む中では、低迷している日本よりも活発な世界へ流れる傾向があると思う。

 

金利を上げて活性化を

 

 そういった状況では、資本を日本国内でも活発化させることだ。そのためには、金利を上げ、家計に潤いをもたらすことも重要ではないか。そうすることによって、より効率的な経済活動がなされるのではないだろうか。」

「金利手術が最初に取り上げるべきではないかと思った。産業全体の活性化に一番根本的につながってくると思うからである。年金制度など社会保障を制度として整えて、将来不安を取りのぞくことも消費を促し、経済を成長させていくので重要と思うが、一番元となるのが金利政策ではないか。

 やはり、国内の成長が止まり、海外へと目が向けられている現状ではあり、またそれは重要であるとは思うが、技術力・資金など様々な日本の資産が海外に流出するのは日本の将来にとっては望ましくない。」

(5)人権手術については

 「今の日本では、全ての人の人権が守られているだろうか。私は、そうは思わない。日常生活の中で、様々な、人権に関わる問題が多々出てくる。

 例えば、障害者の問題。こういう言葉は、あまり使ってはいけないのだろうが、普通の人と少し違った人(見た目や行動)は、人権を侵害されているケースがある。差別、いじめ、仕事などの問題につながっている。

 人権とは、誰もがその言葉を知っているのだが、その本当の重み、人権を侵害された時の心の痛みを知る人は少ない。実際、私もその一人。

 職場でのパワハラ、セクハラ、過労死、集団社会での差別やいじめ、マスメディアによる人権侵害…を挙げるとキリがないほどの人権問題。

 複雑で難しく、改善させるのが困難に思えるが、長期的な視点で、社会全体を意識改革し、実行しなければならない。」。

 次に(6)役所手術について 

 

効率のよい大きな政府を

 

「大きな政府と小さな政府の二者択一で政府の方針を決めるとするなら、私は、大きな政府を支持する。何故なら、人は皆、計画的に生きることが期待できない。よって、国民の集合体としての政府が将来のために手厚く保障をするべきである。

 社会保障の手厚い大きな政府を選択することは必ずしも公的機関の拡大を意味する訳ではない。公的機関の仕組みによって、大きな政府と小さな役所の共存は可能である。それには役所の仕組みの流動化が必要である。これから日本が地方分権社会に移行していく経過の中で、役所の意思決定の流れが固定化したままでは、変革に適応することは難しい。 行政・役所の顧客は国民・市民であり、出資者も国民・市民であるという大変特異な環境にある。」

 「行政の土日サービスのような「小さな役所で大きなサービス」と「カネと役所を休ませない」ようにする仕組み作りを全国で行うべきで、また、役所で働く人が仕事としてただ業務をこなすという意識を、「喜ばれる喜び」という意識に変えることで仕事への意欲を高めることも必要だと思います。

 他にも、ゴミ収集を有料化することでできたカネを少子化対策に使うように無駄を省いて、本当に必要とされていることに有効的に活用できる基盤作りと実行できるような組織作り、また、裏金などの汚いカネが出ないようにするクリーンなイメージの役所を全国で作らないといけないと思います。」

(7)空港政策について

 「日本は今、戦争が日本で起こって以来の「孤立」的な状況にあると認識している。ある本では、モンゴルの高官が、イスラエルと日本だけが、異常に、周辺の国との関係がうまくいっていないと述べていると書いてあったが、日本が内を向いている傾向があるためだと思う。空港が24時間開いていないことと無関係ではないと考える。なぜなら、より外の世界と関わっていこうと思うならば、それに対応して、それなりの対策を打つと思うからである。」

 日本の活力をとりかえし、希望の持てる国を次の世代に引継ぐことが政治と経済の最大の役目であるとするなら、このような若い学生の「政経」手術の提案を、日本の改革に活かしていかなければならない。読者の皆さんからのご意見もお伺いしたいと思います。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

日本神話にみる女性  2007年9月17日

出雲に育ち、出雲で結婚式を挙げた私と妻は、その後三十年余の長い年月を、東京や世界の各地で過しました。

 

ふるさとへの親孝行

 

 出雲市民から帰国せよとの要請を受けて、会社に辞表を出して、私と妻は平成元年にニューヨークから出雲市に帰りました。

 市長としての理念と政策は五つにまとめて提案しました。

 その最初に掲げた政策が、「手をつなぐ出雲市」でした。その思いを分って頂けるように、選挙活動も出雲市内からではなく、大社町、平田市、佐田町、湖陵町、多伎町などへのご挨拶や集会から始めました。

 まわりの市町村には市長に就任してから挨拶にまわる・・・・・・、それは誰でもやることです。出雲市はその地域の中心市だからこそ、市長としての仕事を始める前にまず周囲の市町村の人たちに頭を下げて、私の考えや姿勢を知って頂くことが大切だと私は思ったのです。

 約束どおり、私は市長在任中に、周辺の市町村と出雲市の合併も視野に入れて、いわゆる広域圏行政を展開しました。

 就任六ヶ月後、平成元年の秋に実現した「出雲大学駅伝」もその一つでした。出雲周辺の市町村をコースの中に組み入れて出雲の一体感を再生すること、そして、日本各地の島根県出身者や島根にご縁のある方たちに、毎年十月の「神有月(かみありづき)」をテレビ画面を通して見て頂く情報発信。

 スポーツの振興だけではなく、出雲の一体感と、出雲から全国への情報発信の三つを目指したのです。

 平成十五年三月、長年の夢は実現し、大出雲市が誕生しました。ニューヨークから帰って周辺の市町村に遊説を始めてから十四年ということになります。

 今年の一月二七日、島根県松江市での厚生労働大臣の「女性は子供を生む機械」発言が問題になりました。私は各党の議員が出席している予算委員会で、出雲神話を紹介しながら柳沢大臣の反省と謝罪を求めました。

 

女性を救ったスサノオ神話

 

 男の神様が女性を救うという女性尊重の「スサノオ神話」。救われた乙女の名前が「稲田姫」であることに、日本の農業が始まった出雲地方では女性が農業を支えてきたことがよく分ります。

 また、日本の歴史に残る最初の正式な結婚式は出雲の國、八重垣神社で行われ、その神社には、二本の別々の椿が途中で一本の椿となり、花を咲かせている夫婦(めおと)椿があり、幸せの象徴として資生堂のマークにも使われています

 このように、日本古来より女性尊重の伝統がある島根県をわざわざ選んで、あのような女性侮辱発言をしたのはなぜか。自民党の国会議員だらけの島根県でなら本音を言っても許されるだろうという、「島根で本音」の心のゆるみがあったのではないかと質問しました。

 東京の半分の県民所得で、東京の倍の出生率。少ない所得で一生懸命子育てに励んでいる島根の女性を日本の宝として、人間の鑑として見直すべきではないかと主張しました。

 私の母も、妻も、長女も、島根生まれ。三代にわたる島根の女性を家族に持つ私は島根県民の怒りを国会へ叩きつけなければならないと思いました。

 東京と島根の県民一人あたりの所得格差が三十年、五十年の間に益々拡大し、平成十六年には東京を一〇〇として五二。その格段な収入格差の中でも子供たちを育て、教育し、一八才になると東京へ、大阪へと、進学、就職のために送り出す、日本で最も悲しい県の一つです。

 教育予算は、米・英・独・仏の平均がGDPの五%であるのに対して、日本はわずか三・五%と、格段に低いのです。

 欧米の教育予算との差、GDPの一・五%を金額に換算すれば、七兆五千億円、つまり、消費税の三%以上に相当する膨大な「教育目的税」を、「第二の消費税」として日本の両親が負担してきたことになります。

 

所得格差と闘う母親たち

 

 しかもこの「第二消費税」という家計負担は収入や消費に比例するのではなく、どの家庭にも子供が生まれる結果、収入の少ない家庭ほど負担感が重いのです。

 加えて大都市と地方との所得格差の問題があります。平成六年度からの十年間に、東京を一〇〇として地方県の所得がどのように低下したかを見ますと、

 青森県     六〇→四七   
 島根県・鳥取県 六四→五二
 長野県     六八→六〇
 「中央から地方へ」というかけ声とは逆に、所得は「地方から中央へ」と逆流し、今では島根県の所得は五〇を割っているでしょう。

 半分の所得で東京と同じ学力の子供を育てるということは、地方の両親の教育負担が約二倍となっていることを意味します。

 島根県では大学進学者三千百人のうち八五%が県外へ出て行きます。県外の特定大学へどうしても行きたいという学生も当然いますが、多くは県内に収容能力がなく、志望学部がないためです。

 島根県ほどではありませんが、東北、山陰、四国、九州の過疎県も大同小異です。

 これらの地域は、かつての高度成長期においては、若者を都会の労働力として送り出す「人材供給県」でした。今は進学という名のもとに再びそれが繰り返されています。高度成長の時と異なるのは、今は子供が二人程度しかいない点です。

 もし、彼らがそのまま都会で就職すれば、地方には親と年寄りしか残りません。

 一八才までの子供一人当たりの生育・学習費を二千万円とすると、島根県の場合、二千七百人が県外へ進学しますから、五百億円の投下資産が毎年奪われていることになります。

 都会への進学に伴って生じるもう一つの現象が、仕送りという形での家計からの流出です。島根県に例をとると、毎年二百億円以上が「仕送り赤字」として県外へ流出し、資産損失五百億円と合わせて「教育赤字」は年七百億円に達します。

 島根県の年間生産農家所得が二百億円ですから、この「教育赤字」を抱えたままで地方が自立できるはずがありません。

 「財政残って日本滅ぶ」という政策は、本当に正しいのか。

 地方分権という名目に隠れて地方に負担を押しつけるのではなく、国がクチを出すならカネもしっかりと出すべきではないでしょうか。

 島根県だけの問題ではありません。広がる経済格差の中で、教育格差だけは防ぎたいと懸命に努力しているお母さんたちを、日本はもっと大切にすべきではありませんか。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

 

「喜劇・郵政民営化」

2007年9月24日

 

2007年9月24日

 
 2007924

「喜劇」とは、一般に滑稽味や風刺、愚かな行為を交えて観客を笑わせながら、幸福な結末をとるものが多く、悲劇で終わるオペラとはその点が大きく違っている。

しかし、日本の郵政民営化喜劇は、悲劇のフィナーレが隠されている珍しい喜劇となりそうだ。

サービスはダウン、料金アップ

 私と家族は、アメリカ、イギリス、フランスに住み、それぞれの国で郵便を受け取り、そして日本へ郵便を出してきた。その郵便に対する考え方はいろいろだが、どこの国でも郵便と郵便局が、仕事ではもちろん、一般の暮らしや、とりわけ高齢者の人たちや地方の村落に大きな役割を果たしていることは間違いない。

 いよいよ十月一日から郵便事業の民営化がはじまる。

 そのために全国の郵便局員が読まされるマニュアルは六万ページ、ダイジェスト版だけで三〇〇〇ページに達し、ほとんどの局員にとっては、それを読んで学びとるだけで定年の日を迎える計算になるという。 

その民営化が利用者にどのように影響するのか。身近な集配局が土・日のサービスを中止したり、職員を減らしたり、山間地では集配業務をやめて無集配局に格下げ・縮小したり、かと思うと、郵政公社が四つの会社に分れて、民間から迎える社長や役員のポストが急増したり…。

 要するにサービスはダウン、料金はアップ、(集配の)ポストを減らし、(肩書の)ポストは増やす、配達時間は遅くなる…。

 なんのための民営化なのか。

 私は市長時代から、郵便局のネットワークを公共サービスに活用することを持論にしてきたし、国会でもそれを主張してきた。

 

 郵便局を安心の拠点に

 

市町村合併で、市役所・町村役場の統廃合も進んでいる。こうした現状にかんがみれば、全国津々浦々にある郵便局を公的サービスの拠点として活用し、住民票、印鑑登録証明書の交付や転入・転出手続き、介護保険給付の受け取りや高齢化に伴い激増する年金生活者への通知などを郵便局の窓口で行う。これは行政合理化による財政再建の方向性とも一致する。

公社は既に独立採算制を採用しており、職員の給与も郵政事業の収入の中から支弁されていて、税金も一切使われていない。

郵業は拡大、郵貯は縮小。公営を堅持し、今後ますます過疎化・高齢化が進むと予想される地方において、「安心・安全の拠点」としての郵便局を公的なセーフティーネットとして行政、防災、福祉のサービス・センターに活用する。公営だからこそ、国民という株主を代表して国会が公社の経営に関与できる。民営化すれば、国会はもはや民間会社の経営には干渉することができなくなる。

 私は二〇〇五年二月の予算委員会でこの問題を取り上げた。

 郵政と地方行政を担当する総務大臣に、「アメリカは民営化するのか、しないのか」を質問した。麻生大臣は私への答弁として、二〇〇三年七月三〇日にアメリカ大統領に提出された報告書の結論を読みあげた。

 「民営化は郵便サービス及び民間市場を混乱させるおそれ、また単一の民間企業がユニバーサルサービスを提供することは不可能。米国郵便庁を公的な機関として維持し、業務内容の再検討、組織の見直しにより効率性と将来への適応性を向上させることが望ましいと書かれてあります。」と。

 

米国の御指導と誤指導 

 

 日本に民営化を迫ったアメリカの「助言」も、親切かどうか。自分の国が郵便を民営化して成功した、利用者の不便も苦情もない、だから日本も民営化したらどうですかというのは親切というもの。しかし、自分の国は民営化法案を二度廃案にし、「民間企業に全国一律の郵便サービスは不可能で混乱が起きる。アメリカは民営化せず国営を堅持する」とはっきり結論を出し、公表しているのだ。
 自分の国はやらない、やれないと決めたことを日本に勧めるのは、これもまた親切ではなく、意地悪というものだ。

 アメリカがいつも間違っているわけではないが、判断を間違えたこともしばしばある。アメリカから御指導いただいた内需拡大、バブル政策が日本人の暮らしにどういう結果を残したか。「御指導」と「誤指導」、「親切」と「意地悪」の区別さえつかないお笑い。

 真昼の委員会で愚かさを売りものの即興劇が次から次へと演じられ、観客もあきれるやら、腹を抱えるやらで大評判となった。 

 第一に、黒字公社をわざわざ民営化して赤字会社にする愚かさ。

 第二に、民間会社と言いなが

ら、「日本郵政会社」と政府の「政」の字をつけ、補助金もつける愚かさ。

 第三に、民間活力尊重を唱えながら、既存の民間企業を競争で圧迫する愚かさ。

 第四に、わざわざ兼業のメリットを捨ててまで分社化して、コストを上げる愚かさ。

 第五に、分社化でポスト(役職)を増やして、ポスト・オフィス(局)を減らす愚かさ。

 第六に、最大の郵便国アメリカが公営を堅持すべきと発表しているのに、それを日本の国民に知らせもしないで民営不成功の国をさがして真似る愚かさ。

 第七に、防災、防犯、介護の必要が高まっている時に、二万五千の安心拠点を活用しない愚かさ。

 第八に、地方の時代を唱えながら、地方の安心を奪う愚かさ
 手を叩いて愚か手品に興じているうちはいいが、入口で払った木戸銭の他に、出口でツケを払わされるのが国会劇場の仕組みと分ればいずれ大騒ぎとなるだろう。

私がこのように予言したのが民営化法案採決に先立つ二〇〇三年二月のことだった。その国会喜劇が終り、突如としてその年の九月に総選挙が行われた。

 その選挙では二つの即興劇が付け加えられたことも忘れてはならない。

 一つは、法案を否決した参議院への見せしめとして参議院選挙で国民の審判を仰ぐならともかく、法案を可決した衆議院を解散するという前代未聞の逆モーション。

 

 民営化で自殺した議員

 

 もう一つは、いじめはいけないと学校で教えながら、党内の反対議員を追い詰めるために刺客団を動員していじめドラマを全国に放映させたこと。

 国民はこの刺客ドラマにも熱狂し、手を叩き、興じながら投票所へと向った。

 この熱狂ぶりを見て、郵政民営化反対を売りものにしてきた神奈川県の無所属候補者は、党が無いからマニフェストも無いといううま味を生かして、急きょ宗旨変えをして、のぼりもビラも反対から賛成に作りかえて票を集め、見ごとに当選した例さえもあった。

 その陰では、今ではほとんど忘れられているが、地元住民の反対と党の賛成の板ばさみに苦しみ、真面目な茨城県の自民党代議士が自殺する悲劇さえあった。 

その狂熱の総選挙からちょうど二年。ようやく冷静さをとりかえした有権者は、今年の参院選では民営化を推進した自民党への支持を撤回し、自民党は前例のない惨敗を喫した。

 JRやNTT民営化を成功例として掲げてきた民営化論者の誤りは、民の経営と官の経営の二つどころかその一つの経験さえもない人が主役となったことだ。

 JRやNTTは乗車距離や電話距離に比例して収入が計上できるが、全国一律の料金が原則の郵便を民間企業に押し付ければどうなるか。表面料金だけは一律としながら、手抜きサービスと、積み増し料金で弱い者、遠い者いじめの経営をせざるを得なくなる。

 あれから二年、どこかの国が、日本をお手本に民営化に踏み切ったという話を聞いたことがない。

 日本に民営化を迫ったアメリカは、民営化に苦しむ日本を横目に郵便国営を今でも堅持している。

 民営化喜劇の第一幕が終り、喜劇が悲劇と変わる第二幕がいよいよ来週から開かれる。

  (衆議院議員、元出雲市長)

 

地球にも配当を  200710月1日

今から十年前の一九九七年、日本の京都において、京都議定書が策定されました。この京都議定書では、クリーン開発のメカニズム、排出量取引のメカニズム、共同実施のメカニズム、吸収源活動のメカニズムの四種が規定され、現在に至っています。

 それから十年。来年は日本の北海道の洞爺湖において、サミットの歴史上はじめて環境を主たるテーマとしたサミットが開催されます。

 環境問題は、先進国と発展途上国との間で調整を要する事項も多々ありますが、環境問題は人類共通のテーマであるという視点に立った枠組みだけではなく、新しい思想を確立してゆく必要があります。

 アメリカのバージニア大学の経営大学院の客員教授を引受けて二十年、中国の南開大学の政治学部客員教授を引受けて十年、短い期間でしたが韓国の明知大学の客員教授も引受け、それぞれの国の学生に話してきました。

 とりわけバージニア大学はアメリカの民主主義の祖と言われアメリカ独立宣言を起草した第三代目の大統領トーマス・ジェファソンがバージニア州シャーロッツビルに創立した米国最古の大学という伝統を誇り、そのビジネス・スクールには世界各国の優秀な学生たちが集い、熱心に学んでいます。

 言わば、世界の次の時代を担う英才たちが集まり、議論を交わし、民主主義、資本主義グローバリスムの精髄に触れ、そしてアメリカ、中国、日本、インド、東欧などそれぞれの国へ、希望に胸をふくらませて巣立ってゆくのです。  

 二十一世紀の民主的資本主義社会のリーダーを育てるゆりかごの役割を果たしているシャーロッツビルのキャンパスで、私は近年の講義で、二十一世紀のための二つの哲学と三つの健康と、地球のための五つのEについて次のように学生に話しています。

 

二つの環境哲学

 

 二十世紀までの資本主義では、優秀な経営者は三つの経営目標を持っていました

 第一に良い製品やサービスを提供して顧客に喜ばれること

 第二は、社員安心して働ける職場を維持すること

 そして第三に、株主にもできるだけ多くの配当を支払うこと

以上の三点でした。

 しかし、企業を支えているのは顧客と社員と株主の三者だけでしょうか。もう一人の最大の貢献者を忘れてきたのではないでしょうか

 二十一世紀は、地球に「配当」(DIVIDEND)を支払うという視点を考慮することが必要ではないでしょうか。

 経済活動を初めとして、すべての人類の活動は、地球環境が正常であってこそ成り立つものだからです。地球は、一日二十四時間、一年三百六十五日、絶え間なく動き続け、私たちに食糧のみならず生きる幸せを与えてくれています。

 二十世紀までの資本主義の視点を変えて、私たちの生きる二十一世紀は、すべての企業活動も地球という最大のSTAKEHOLDER、SHAREHOLDERがあってこそ、ということを念頭に置く必要があります。

 これが私が主張する二一世紀経営者に必要な新しい哲学です。

 次に、企業経営者だけでなく、地球上に住むすべての人類に共通する新しい哲学も必要です。

 わが国においては、古くから「山川草木悉皆成仏」、「一切衆生悉有仏性」という考え方があります。

 「山川草木悉皆成仏」とは、「仏性は人間だけにあるのではなく、すべての生きとし生けるものばかりか、山や川なども仏になれる」、「一切衆生悉有仏性」とは、「人間以外の山川草木や動物などすべてに仏性がある」とする大乗仏教の思想です。

 各国においても、自然を大切にする思想があると思います。そうした伝統に基づいた宗教の違いをこえた素朴な自然と共生する「共生の哲学」を広め、各国の教育の中にも重視してゆく必要があるのではないでしょうか。

 

 三つの健康

 

 次に、環境問題を考えるにあたっては、三つの健康を念頭に置く必要があります。

 まず、「人間の健康」。環境問題によって、私たち人間の健康は影響を受けることになります。経済発展に伴う公害は年ごとに多くなっています。

 次に、「生物の健康」。環境破壊の進行によって、すでに多くの生物の種の絶滅が引き起こされ、絶滅の危機に瀕している種も多数あります。

 それがまた環境における生態系のバランスを崩すという悪循環を長期化、固定化させてゆく・・・、これにも早く手を打つ必要があります。多くの地球上の生物が人類の英知と勇気に救いを求めているのです。

 そして、「地球の健康」。私たち人類をはじめとしたすべての生物の子孫のためにも、「地球の健康」を守ることが必要です。

 日本が積極的に進めなければならないのは、世界で日本にしかできない、日本に最もふさわしい、「地球のドクター」というポストを確保することです。  

 一九九五年、日本が主唱し、出雲宣言で始まった宇宙衛星による「地球地図」が間もなく完成し、地球環境保護に貢献します。

 出雲市が創設した「樹医」制度が全国で千六百人の「樹木医」に発展し、日本の森や樹木を守っています。次は世界の森林を守ってくれるでしょう。

 京都議定書も二〇〇五年の二月に発効し、日本は地球温暖化防止の先頭に立つことになりました。

 このような日本の実績を踏まえれば、日本が農業国、森林国でありながら高い工業技術を持つ国として、地球の森林と水と大気を守る、いわば「地球のドクター」としての地位をかち取ることは決して難しいことではありません。自然を大切にしてきた日本人の民族的感性に最もふさわしい役目ではないでしょうか。

 戦争の時には自衛隊の影は薄くても、平和な時にはいつも地球破壊との戦いの先頭にいる国として、誇りを持ち、各国の評価を得ること、そのような日本民族の高い志を憲法の前文にも墨痕淋漓(りんり)、書きこみたいものです。

 

五つの「E」を

 

 環境対策を進めるにあたっては、次の五つのEで始まるキーワードが重要です。

(一)ENVIRONMENT。環境が重要かつ緊急な課題であることを認識する必要があります。

(二)ECONOMY。経済活動と環境対策の調整が必要です。

(三)ECOLOGY。人間も生態系の一員であるとの視点から、人間生活と自然との調和・共存をめざす必要があります。

(四)ENERGY。エネルギーも、化石燃料から、他のクリーンなエネルギーに転換を図る必要があります。

(五)EDUCATION。子供たちに早い時期から、世界中の学校で、地球環境問題の重要性・必要性をしっかりと理解させる教育が必要ではないでしょうか。

 

  (衆議院議員、元出雲市長)

 

消えない年金こそ  2007108

 この一年間の国会の議論の中心は年金である。朝から夜まで、あちらで年金、こちらで年金、年金をめぐる不始末の一つひとつがとりあげられ、責任のなすり合いや、その不始末金額の大きさに、国民の年金不信と年金不安は高まるばかり、納付率は下がるばかり…。

老後の安心を支えてくれるはずの年金の抜本的な改革には手を付けないで、朝から晩まで大臣と国会議員が犯人さがしに没頭している国が世界のどこにあるだろうか。

「消えた年金」、「盗まれた年金」探しが大切なことは誰にも分っているが、それと併行して、いや、それ以上に必要なことは「消えない年金」、「消せない年金」、「盗まれない年金」を一日も早く政府と国会がつくり上げることではないか。

世界で最も充実していると自称してきた日本の年金には、二つの危ない仕掛けがあった。

一つはアメリカとヨーロッパの二つをお手本にして、その「よいとこどり」をしたこと。
 少なく払って少なく受け取る米国型と多く払って多く受け取る欧州型。それぞれの国へ視察に出かけたセンセイと官僚が、持ち帰った二つのレポートにはさみを入れて、米国型と欧州型をのりづけしてできあがったのが、少なく払って多く受け取る欧米混合のOB型。一見世界のどこにもないこの有利なOB型年金に、もちろん国民は喜ぶわ、選挙で票は集まるわ…。

もう一つの仕掛けは年金支払年齢を当時の平均寿命の六五歳にセットしたこと。平均にならして考えれば、長年払ってきて受け取る頃には皆さんがお亡くなりになっているということ。従って年金官庁は支払いの心配をする必要もない。しかし人間は単純だから、自分だけは六五歳以上長生きできると思ってせっせと支払い続け、この仕掛けにも気づく人は一人もいなかった。

確定した金額を毎年必ず受け取れるというシステムを「年金」という。辞書にはそう書いてあり、世界の常識でもある。確定した金額を給付することを約束してお金を集めた国家がそれを実行しないなら、それは詐欺とどこが違うのか。

そのような詐欺国家とならないために、そして七十八%に高まっている年金不信を一掃するために、私は年金の新しい仕組みを五年前から提案している。

 

国民皆負担、皆年金

 

大原則は「皆負担、皆年金金」。職業や会社の規模や男女の差別を一切取り払って、年金は国民共通の制度に一本化し、その上で、消費税を財源とする国民基礎年金と、資産と所得と意欲に応じた自己選択積立金を財源とする積立年金との二階建てにする。

一階部分の基礎年金はだれもが同額六万六千円を受け取る。

そのために消費税を、現在の五%から二年に一%ずつ上げて十年後に十%として、年金保険料は徴収しない「減税付きの増税」。消費税が年金という名札をつけて財布に帰ってくる。

その無料の一階部分の上の二階部分はそれぞれの財布と相談して毎月一万円、二万円、三万円の三つのコースのどれかを選択し、「年金国債」を二十五歳から六十五歳の四十年間に分割購入し、満期の六十五歳からその金額の十倍、たとえば一万円コースの人は毎月十万円、三万円コースの人は三十万円を一生涯受け取ることができ、途中参加、途中変額、途中解約も可能な条項を設ける。

この新しい制度では年間十兆円と試算されている企業負担が一挙にゼロとなる。その分だけ企業は雇用の増加、賃金アップ、設備投資、利益の増加などで、国の税収の増加、個人消費の伸び、そして治安の維持などにつながり、財政構造の改善にも大きく寄与するはずだ。

所得比例にこだわれば自営業者がとり残される。企業負担にこだわれば正規雇用が減る。所得比例と企業負担の二つの呪縛を断ち切ってこそ、はじめて新時代の年金が誕生する。

国債だけを購入する仕組みだから、他の目的に使用されることは一切なく、年金運用の横道、わき道、まわり道は完全になくなる。自分で選択できる自由と自分で計算できる分かりやすさがあるから、「負担」というイメージが「参加」という意識に代わり、若い人たちも二十五歳を待ちかねたように参加してくるのではないだろうか。

自分がいくら払い込み、いくら受け取れるか、五十・二%とかの比率やパーセントでなく、明確に金額で分かる仕組みだから信頼度と透明性は格段に向上する。

今までの複雑な制度は一元化され、社会保険庁と国税庁の窓口は統合一本化する。米国のように税と保険料を一緒に集める「徴収の一元化」で保険料の割高な徴収コストをゼロにする。社会保険庁には大型コンピューターが一台と「長官兼掃除係」が一人。国民一人ひとりに年金ICカードが一枚ずつ。運用リスクなし、天下りなし、管理コスト・ゼロ、世界一透明正大な年金システムが完成する。

自分がいくら払ったのか、いくら受け取れるのか、確かめたい人は、「年金カード」を銀行や郵便局の預け支払い機に差しこみ、すぐにのぞけるようにすれば、年金に対する信頼と、払い込み続けるはげみにもつながるだろう。未納は自分だけが損をすることになることも、スクリーンを眺めながらよく分かるはずだ。

 年金や医療は、政権が代わるたびに制度が変わっては国民が安心していられない。この新方式は「年金国債」だから、どの政党が政権党になろうと、保険料が引き上げられるとか、年金支給額を削られるということがない。一階部分の柱がぐらぐらすることもなければ、二階部分の天井がずり下がってくることもない。

 一方、既存の年金制度と新制度が並存する期間については、たとえば二十年間という移行期間を設け、新方式への移行者については、支払い済み期間と受け取り開始時期などの期間按分、金額あん分を慎重に行わなければならない。

 

世界一女性に有利な年金

 

 一階部分の基礎年金はだれにも無料、そのうえ女性には一階部分も二階部分も七年分のおまけ付き。現在の平均寿命を前提にすると、六十五歳から年金を受け取る期間は男性十四年、女性は二十一年。つまり女性は七年長く、金額では男性に比べて五割多く受け取ることになり、世界一長寿の日本の女性を支える日本の男性の負担は並大抵ではないが、女性の老後の暮らしが安心できれば、七年早く人生を終わる男性も安心できる。
 アメリカとイギリスでは三年分、ドイツとフランスでは四年分、それに比べて女性に七年分の年金を残す日本の男性こそ、世界で最も女性に優しいことをまず年金の姿で明らかにしておこう。

 女性には安心を、男性には誇りを…。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

北東アジアへの愛  20071015

日本、韓国、中国を中心とする北東アジア地域は現在、全世界のGDPの二〇%、世界人口の二三.六%、世界貿易の一八%、世界の外貨保有高の三八%を占めています。

多くの歴史学者や経済専門家は「二一世紀は北東アジアの世紀」と予言し、地球上で最も成長率が高く、二〇一〇年には世界貿易量の三三%を占めると予測しています。

 中国、ロシア、韓国、北朝鮮、モンゴル、日本の六カ国六五自治体連合が年初から準備を進めた国際経済フォーラムが、いよいよ十六日から開催されます。

 韓国の政治家、軍人を輩出してきた韓国の慶尚北道大邱(テグ)市で、日本からは東大の和田名誉教授とともに私も講演いたします。

 

三つの強さと六つの問題

 

 中国、韓国との交流にこの二十年間、出雲市長として国会議員として努力してきた、経験と想いを踏まえて、北東アジアの経済発展のために三つの強さ、六つの弱さ、七つの提案をお話したいと用意しています。

 世界の他の地域に対する北東

 

アジアの強さは次の三点です。  

 第一に、「高い人口増加率」です。人口の高い伸びが地域全体として見込まれている地域はそうでない地域に比べて労働力に恵まれ、消費人口の増加に恵まれ、従って高い成長を実現できることは今までの歴史が証明しています。

 次に「恵まれた食料資源」です。四季の季節変化と水に恵まれた世界でも最も農業に適している地域です。

 そして、第三の強味は、その圏域の中に日本、韓国のような「高度な工業技術を持つ国」が存在することです。

 しかし、問題点がないわけではなく、克服しなければならない多くのハンディキャップも抱えています。

 第一は、エネルギー資源の不足です。

 第二は、産業資金の不足

 第三は、地域内の経済格差

 第四は、交通網等のインフラ整備の遅れ

 第五は、環境汚染の深刻化

そして最後の問題はこの圏域には政治、軍事的な緊張関係が未だに存在することです。

 これまで述べてきましたように、私たちの北東アジア圏域は、既に存在する他の強大な経済ブロックに充分対抗できる三つの条件を持ちながらも、克服しなければならない以上の六つの課題を抱えています。  

   

 

  七つの提案 

 

そういう視点から、北東アジア地域の発展のために次の七項目を提案しようと思います。

 まず第一に、各国自治体の企画・推進共同機関設立

 第二に、域内共通の「労働許可証」を導入すること

 第三に、資金調達のための証券市場整備

 第四に、エネルギー資源確保のためのシー・レーン設置

第五に、交通網、特にアジアとヨーロッパを結ぶ「シルク・ロード新幹線」の建設

第六に、自由貿易地区「FTZ」を各国に一ヶ所ずつ設置

第七に、環境保全共同委員会を圏域内に設置することです。

 北東アジアは、戦争や侵略の不幸な歴史を各地で持っています。反省し、歴史に学ぶことは大切ですが、それ以上に大切なことは、未来の歴史を創り出す勇気を政治家が示して、若者の期待に応えることではないでしょうか。

 出雲市は島根県の中央部にあり、韓国の「檀君神話」に相当する、日本で唯一残存する神話

 「出雲神話」の舞台であり、

 

 

出雲大社には、北東アジア地域

内の古くからの交流を裏づける神々が祀られています。

 北東アジアとの関連が深い島根県の政治家としては、近年では外務大臣、衆議院議長をつとめた桜内義雄、総理大臣をつとめた竹下登がいます。

 桜内さんは韓国を愛し、大邱大学を支援し、香木を記念植樹しています。

 私もその傍に、二〇〇四年に大邱大学で講演した際の記念として、李総長とイチイの木を植えました。韓国では朱木(チュモク)と呼ばれるイチイの特徴は、その固さと年代に耐える丈夫さで、韓国では「生きて千年、残って千年」と言われて尊重されています。

 三年の間にどれだけ背が伸びたのか、その若いイチイの木に会えるのが楽しみです。

 竹下さんが若き日、県会議員をつとめた島根県は、この開催地慶尚北道と友好交流協定を結んでいます。

 

 勇気なき政治家

 

 竹下さんは、一九九二年、リオデジャネイロで開催された地球サミットで、日本を代表し、

 

「今や環境を論ぜざるは、知性と教養と良心と勇気なき政治家といえる」と述べました。

 アメリカのゴア前副大統領がノーベル平和賞を受けましたが、世界のトップクラスの政治家の発言としては、竹下さんの発言は当時としては勇気ある先見性に富んだ発言として注目されました。

 経済活動と環境対策の調整がとれなければ結局経済が行きづま、企業や消費者が大きな負担をかぶることになります。

 それを防ぐために最も大切なのが教育です。世界中の学校で、地球環境問題の重要性をしっかりと理解させる教育が必要ではないでしょうか。

 人間に生命、動物にも生命があるように、樹木にも生命があります。生命があるものにはすべてお医者さんが必要。

 そういう思いで私は市長に就任した年に直ちに「樹医」制度を作りました。平成元年に誕生した出雲市の十人の「樹医さんが国が熱心に普及させて、今では一六〇〇人の樹医さんが、日本の木を、森を、山を守っています。

 木にもお医者さんがいるのを見て、日本の子供たちは木にも緑にも生命があることを知っています。

 今までの不正確な世界地図に代わり宇宙衛星で制作する「地

球地図」誕生の地となり、出雲

 

宣言を決議した一九九四年十一

月の出雲市の会議には、中国、カナダ、韓国、米国、EU、マレーシアなどの国が参加しました。それから十三年、今では、一五七カ国、一六地域が参加し、地球表面の九五%がカバーされています。

 出雲市からはじまった「地球地図」が世界の環境問題、地球崩壊を救うことに貢献することになれば、まさに北東アジアが生み出した歴史、自然との共生哲学が世界人類を救うことになる、・・・それが私の政治家としての夢です。

科学と倫理と生命を大切にする教育こそが地球人類を救い、豊かな生活のための経済発展を保障してくれるでしょう。

 宗教の違いをこえた、日本の伝統でもある自然と共生する「共生の哲学」を、日本が提唱し、各国の教育の中も重視してゆく必要があります。

 秋たけなわの大邱で大邱大学の友人や慶尚北道知事、大邱市長にまたお目にかかれるのも楽しみです。

 日本の国会議員として提言する以上は、発展する北東アジアの政治家の役割と使命についても触れたいと思います。

 北東アジアへの私の愛と感謝が、一人でも多くの人に伝わることを願いながら・・・・・。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

 

あれから二十年  20071022

サブプライムローンに発して世界各地の株式が暴落した。くしくも二十年前のニューヨーク株式の暴落を思い起こした人が多かったに違いない。

竹下新総裁誕生のニュースを知ったのは十月十九日の午後一時すぎ、私がニューヨークのメリルリンチ本社のシュライヤー会長の部屋で打合せに入っていたときだった。

今からちょうど二十年前のことである。

 そのあと、私は来客を迎えて、メリル本社内を案内していた。お客というのは日本社会党の堀昌雄衆議院議員である。

 堀議員を株式のトレーディング・ルームにご案内し、コンピューター・システムで株式の値動きを見ていただいた。そのときである。「引値、マイナス五百八ドル」という信じられない数字が目にとびこんできた。史上最大の下げである。

 社会党の代議士が初めてメリル本社を訪れた日が大暴落とは、なんとも複雑なめぐり合わせであった。

 

紐育でのめぐり合せ、隣り合せ

 

一方、その日の夕方、前からの約束で、シュライヤー会長がジャパン・ソサエティーの晩餐会で、野村澄券の田淵会長をなみいる米国財界人に紹介する役目をつとめた。期せずして、日米最大の証券会社の会長が、歴史的大暴落の夜、ニューヨークで隣り合わせに座って会食したというのも、いかにも因縁めいためぐり合わせであった。

 一九八七年十月十九日は、「ブラック・マンデー」として、一九二九年の大恐慌以来の混乱をウォール街のみならず、世界の証券市場にもたらした。

 翌日の『ニューヨーク・ポスト』は一面のトップをでかでかと「クラッシュ」―「ウォール街最悪の日」と報じた。また『デーリー・ニュース』は「パニック」―「底が抜けたような暴落」と報じ、取引所のなまなましい混乱の写真を載せた。

 ちょうどその日は、三菱化成の会長鈴木永二さんが日経連会長として米国視察に到着された日でもあった。翌十月二十日、私が急きょプラザ・ホテルに呼ばれ、ブラック・マンデーの背景と、その後の見通しなどを、ご一行にご説明申し上げた。

 社会党代議士の訪問、それと時期を同じくして偶然ではあるが日経連代表団のニューヨーク入り。日本の左の立場、右の立場、労働界と経営者の代表、それぞれが同じニューヨークに滞在される。これもまた偶然であった。

では、ブラック・マンデーとは一体何であったか。

 それは八十年前の、一九二九年の大恐慌とどこが違うのか。

 メリルに関して言えば、まず第一に、メリルの五、六階をぶち抜いた株式トレーディング・フロアからお金が消えて、それがそのままエレベーターに乗って七、八階へ向かったということである。

 メリルの七、八階は債券のトレーディング・フロアである。つまり、株式を売って債券を買うという行動となって現れたのである。

 八十年前の大恐慌のときは、お金がエレベーターに乗らなかった。ウォール街からいっせいにお金が消えて、しかも銀行までがとりつけ騒ぎに巻きこまれ、世界的な経済恐慌の引き金となったのである。

 当時は銀行が証券業を兼営していたため、暴落と同時に、銀行の連鎖倒産を恐れた顧客が、いっせいに預金引き揚げに走った結果、それがまだ傾いてもいない銀行の足をひっぱって、大恐慌となったのである。

 

銀証分離のセーフティ・ネット

 

 ブラック・マンデーのときも、たしかに株式市場からカネは消えたが、それは債券市場や銀行に向かった。

 もちろん、とりつけではなく、預け先を変えに行ったのである。それは、大恐慌を教訓に一九三三年以降、銀行と証券が分離されていたからである。

 五百八ドル、率にして二八%という史上最大の暴落を演じたブラック・マンデーで、ではメリルリンチの顧客はどれだけ損害をこうむったか。

 ブラック・マンデーの直前の月、九月三十日の月末現在のメリルの顧客の口座残高は二千五百十億ドルだった。これは株式・債券、その他お客さんの財産の総計である。これが暴落のあと、二千三百七十億ドルに目減りした。つまり百四十億ドル、六%の損害である。

 では二八%も下げたのに、なぜメリルのお客さんだけが六%の損失にとどまったのか。よほどメリルのアドバイスがよかったのかというと必ずしもそうではない。

 その秘密は、二千五百十億ドルのうち四分の一しか株式に投資していなかったからである。つまり、百万ドルのお客さんは二十五万ドルを株式に、残り七十五万ドルは債券とかCMA(総合金銭運用口座)といういつでも出し入れできる口座に入れていたわけである。こういうものは値下がりしないし、債券の場合は逆に暴落当日に値上がりさえしていたのである。

 だから平均すると六%の損失ですんでいる。これはあくまでも平均だから、全く株式投資をしていなかった人は損失ゼロだし、株式投資ばかりしていた人はもろに二八%である。

 さらに信用取引、つまり五十万ドルしかお金がないのに百万ドルの株式取引をしていた人は、二八%どころか五六%の損失をこうむったのである。自分の投資損に逆上したある投資家がメリルのフロリダ支店長を撃つという事件をおこしたのも、そうした一人であった。

 

銀行証券自らも投資家になる愚

 

 では、二十年前のブラック・マンデーはなぜ起きたか。

 同じ日のニュースとなった竹下総裁誕生と結びつけて、「竹下暴落」と報じたマスコミもあった。事実は全く関連性はなく、レーガン―中曽根時代の米国経済の種々な問題が基本的な解決をされないままに推移したこと、バブル経済への懸念や、日米貿易収支アンバランスと世界貿易体制への不安などが複合して五年間の上げ相場の一挙大幅調整となったものだった。

 証券投資にはハイ・リターンもあればハイ・リスクもある。市場のメカニズムや証券の組み立てに関係者が工夫をこらしてハイ・リスクをロー・リスクに抑えて健全な投資の場にすることが、国の経済や税収を安定させるためには不可欠なことだ。

 私は三十年間、日米欧の三大市場でその目的に向って懸命に努力してきた。しかし、今のわが国の政策にも、関係者の努力にも私は不満がある。

 一つのまちがいを指摘すれば、規制緩和という名のもとに銀行や証券の責任分担があいまいになり、投資の仲介者に徹すべき業者自らが顧客と同じことをしようとして、公平・公正な目や判断を失いがちになることである。

 世界の市場にこれ以上の業者本位の規制緩和De―Regulation(規制緩和)は不要だ。今必要なのはRe―Regulation(再規制)ではないか。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

支援カムバック 2007115

日本は今、世界の多くの国々から熱い期待の目を浴びている。人命と国家秩序と平和に対する非道なテロ組織撲滅に、日本も仲間として立ち上がるのかどうか。日本が国内の憲法論議をこえた人道的・国際的感覚を示せるかどうかが問われている。

 

イライラ戦争

 

そこで私が思い出すのは二十年前、ニューヨークのウォール街から日本を見ていた頃、ふと目に入った石油連盟の広告のことである。

 文字通り世界を「イライラ」させたイラン・イラク戦争も、ようやく終結の方向に向かい、ペルシア湾にもやっと平和が訪れようとしている。

 いちばん「イライラ」したのは、おそらくアメリカであろう。私はニューヨークで毎朝、テレビに映しだされるタンカーやホルムズ海峡の様子、そして「昨日の死傷者は何人」という新聞記事に接しながら暮らしていた。

 アメリカ人はみな知っている。ホルムズ海峡を通る石油の五五%が日本にいくということを。そして、アメリカには七%しか入ってこないということを。知らないのはおそらく日本人だけであろう。

 なぜ、アメリカの税金をつかって、アメリカの青年の血を流して、半分以上が日本にいくタンカーを守らなければならないのか。日本がほかの面で世界に貢献しているのならまだしも、世界のフリー・マーケットを荒らしまわり、迷惑ばかりかけているではないか。そんな国のため、なぜ?

 アメリカの「イライラ」の本当の原因はここにあった。

 

石油海峡冬景色

 

 まさにその頃に日本の各紙に日本石油連盟の広告が大きく掲載された。石油がいかに大切か、その石油を運ぶ海峡の安全と輸送に従事する人たちへの感謝の言葉いっぱいの、時宜を得たキャンペーンだった。

 「運ばなければならない。だから、通らなければならない」

 何かが足りないのではないか。「運ばなければならない」こともわかるし、「通らなけれ

ばならない」こともわかる。

 では、そのためには何が必要か。「守らなければならない」はずである。ところが、どこを見ても「守らなければならない」という文章はなかった。

 ここにはしなくも、日本の防衛意識の欠如が見事に現われている。

「守らなければならない」という意識も責任も、ましてや「守っている」人たちに対する感謝の念すらない。まるっきり「ただ乗り」である。これではアメリカの「イライラ」も嵩じようというものである。

 そしてとどめは、「ありがとう。石油を運ぶ男たち」である。つまり、日本のタンカー業界と乗組員に対する感謝の気持ちはあっても、決して「ありがとう。石油を守る男たち」とは言わないのである。

 自分の国の税金をつかって、自分の国の青年の血を流して、石油海峡を「守っている」アメリカに対する感謝の気持ちは、微塵もなかった。

 これでは、ペルシア湾に春がきても、アメリカ人の心は依然として「石油海峡冬景色」であろう、それが私の感想だった。

 

国際社会の孤児になるな

 

アフガニスタンの復興と安定のために積極的に他の諸国と協力することは日本にとって重要な国際貢献であり、また外交カードでもある。その中でインド洋での給油は最も効率のよい選択の一つでもある。

アフガン情勢は出口が見えないだけでなく、非常事態宣言で揺れるパキスタンやイランをめぐる諸問題とも絡んで急速に複雑化してきているので、いずれ国際的な戦略の練り直しが必要になる。その時の発言権を確保するためにも、日本は一定の貢献をしたという実績が必要とされるのは当然だ。

自衛隊の国際貢献に関する恒久法の制定に向けた議論も進めるべきだ。現行の国連PKO法や特措法では不安定であり、明確な法体系の整備が望ましい。

国際社会の実態は、日米同盟と国連の方向が対立することはむしろ例外で、自衛権と集団安全保障が混然となったグレーゾーンで国際行動を進めることが多い。

その一方で防衛省の統制は日本の安全保障政策上も重要な課題になりつつある。

給油量訂正問題や航海日誌の破棄、更にはイージス艦情報漏洩などの例を見ると、明らかに組織に問題がある。

防衛省の内部統制のあり方を今こそ抜本的に見直すべきであろう。

約十年前、北朝鮮のテポドンが発射され、日本の空を飛んでいる夜、折しも発注汚職が報道されていた防衛庁は、「空にはミサイル、地には汚職」、月明かりの中、庭で証拠書類を懸命に焼却していたという。

防衛庁 防衛庁を 防衛し

などという川柳が新聞に掲載されるようでは国辱ものである。

三年間担当していた毎週日曜日の朝のラジオ日本とラジオ関西の私のトーク番組「凛として日本―甘口、辛口、へらず口―」に坂口厚生労働大臣に登場して頂いた事がある。アイ・ジョージ、上田正樹、神崎愛、司葉子、水谷八重子の皆さんのような芸能界の人や学者、経済人、評論家をゲストにお招きすることはあったが、政治家は珍しく、ましてや現職大臣に登場して頂くのははじめてだった。

 一つひとつの問題を解決する局所療法も大切だが、やはり雇用回復には、経済全体、人間の体で言えばまず体調回復が大事ですね、とお医者さんらしい表現がとび出した。「職の心配」に全力をあげて立ち向かっておられる姿勢がよく分かるお話だった。

たしかに被雇用者と雇用側のミス・マッチも大きいが、それ以上に現実と政策のミス・マッチ、いわば診断ミスと処方箋ミスが最大の原因となっている。

 番組の中でお好きな曲を選んで、愛聴者の皆さんと一緒に聴かせて頂くことになっているが、坂口大臣の選曲は「シェーン」だった。

 映画「シェーン」は、ワイオミングの壮大な美しい山々を背景に情感豊かに描かれ、アカデミー撮影賞まで受賞し、「最も美しい西部劇」とも評された。アラン・ラッド演ずるガンマン、シェーンが悪者を徹底的にこらしめて去ってゆく。坂口さんはそのラストシーン、再び荒野へと去っていくシェーンの背中へ向けて、「シェーン、カムバック」と、少年の叫びが大きな西部の青空にひびく、あの場面が忘れられないのだとおっしゃる。

国際社会は、インド給油から離脱した日本が一日も早くアフガン国民の生活を助けテロを絶滅するための支援活動に復帰するのを待っている。

今、国際社会もアフガニスタン政府も、ワイオミングの荒野に叫ぶ少年のように「シェーン(支援)カム・バック」と叫んでいるのだ。

(衆議院議員、前出雲市長) 

 

 

油か、水か、日本の貢献  20071112

文明社会が野蛮社会や帝国主義時代と異なるのは、人が人を殺さないことである。国家のため、国益のため、あるいは「人間の自由」のためと称して、他国に恐怖や貧困をもたらすことが文明といわれるはずがない。

 イラクの戦闘で既に三千人の米兵と、五万人のイラク人の命が奪われ、それでもまだ国際緊張も、イラクの国内状況も、一向に改善のきざしすらない。
 それは治安活動を超えた戦争そのものであり、皮肉なことに、大量破壊兵器発見を目指したアメリカ自らが大量破壊兵器そのものになっている。

 アメリカは民主主義を押しつける政策の限界を知るべきだ。すべての国にはそれぞれに適した独自の民主主義モデルがあるからだ。

 

「普通以上の国」を目指す 

 

 日本は第二次大戦の悲劇を最もよく知る国の一つ、そして原爆を体験した唯一の被害国。日本は、「普通の国」を目指すべきだという俗論があるが、日本は「普通の国」どころか「普通

の国」以上に戦争の脅威と平和

の大切さを声高に語れる、世界でたった一つの国ではないか。

 日本はそのような国だからこそ、戦争を回避するためにあらゆる外交と国際協調のための先頭に立つべきだろう。

 欧米の大国はいずれも歴史上、中東を中心としたイスラム文化圏において、植民地化や戦争を招いたかつての当事者であり、それに比べて、経済大国といわれる国の中で幸いにも日本だけがそのような歴史を持ってはいない。アラブ諸国に対して、日本は加害者となったことは一度もなく、武器を生産する充分な能力を持ちながら武器を輸出したこともない。

 

アラブの最後の友人として

 

 その点において日本は、歴史的に加害者であった欧米列強とは一線を画してきている。それどころか、アラブを中心としたイスラム諸国には、日本は自分たちの国と同様に被害者であったとの見方さえ存在している。「日本だけが分かってくれる、日本の言うことなら耳を傾けてみたい」という声を、ベイルート所長だった私は何度も聞いてきた。

 このような日本に対する好意と親近感に対して、日本は充分

に感謝を尽くし、適切な対応を

してきただろうか。

  アラブ、イスラエル、アメリカ、こういう一神教の国同士の憎悪や対立を解消するのは容易ではない。だからこそ、宗教的にも伝統的にも多神教土壌の国日本が積極的な役割をはたすべきだろう。

「イスラム開発援助国際会議」を欧米の国に先駆けて日本が提唱することを、六年前に私は予算委員会で小泉総理に提案した。このような国際会議を提唱

することは、アラブとの歴史におけるいくつかの戦争と過失、いわば「歴史の不良債権」に苦しむ米国と英国には期待できない役割である。

 イラクへの自衛隊派遣など、どこの国にもできることはよその国に任せる。

 この会議が成果を挙げれば、欧米先進諸国とイスラム最貧国等との経済格差が縮小され、危険なテロ行動へと走らせるマグマを鎮め、いわば「欧米諸国へのセーフティ・ネット」を構築し、先進国の自由と平和を守ることにつながる。

 まず、国連決議に加えて米国

をはじめとする国際社会からも日本に対して強い要請のあるアフガン、パキスタンのテロ対策と経済的支援への取り組みを急がなければならない。

 この両国だけを特別扱いするわけではなく、この地域の安定とテロ組織制圧のめどをつけることなくしては、イスラム全域の開発計画を策定することはできないと思うからである。

 インド洋の給油については、日本の役割が増大していることを考えれば、当然のことながら国際社会の一員として逃避できない責任として受けいれざるを得ない。

 

テロには水攻め

 

 しかし、油だけの、いわばインド洋のガソリンスタンドだけが日本の貢献ではないことを、この際しっかりとアピールしておく。油か水かと問われたら日本の回答は「油ではなく、水」、「油よりも水」、「武力(行使)につながりやすい油ではなく、民生(重視)の水」を日本の方

針とすべきではないか。 

 アフガニスタン、パキスタン

両国を対象とする水利事業、淡水化事業、農業開発、衛生、医療体制の改善など、まず水に関連する事業に日本のヒトと技術を提供してはどうか。

 このような業務を遂行するに当って、現地の治安がまだ不安定なことを考慮して、大集団による計画的、組織的、攻撃的な「武力行使」とは区別して、突発的、自己防衛的な小集団による「武器使用」も認めなければならない。

 国際社会での役割を日本の自衛隊が負担できるように恒久法を制定すべきだという議論が高まっている。だからといって、なしくずし的な日米安保の解釈や自衛隊の海外における活動は、最も危険なことである。そのためには憲法のあり方についても審議を早める必要がある。

 当面の歯止めとして、国連決議、またはそれに相当する安保理決議を背景とする国連活動とみなせる支援活動への参加にとどめ、将来的に最も望ましいのは日本がイニシアティブをとって国連軍を創設することだ。

 平和憲法を持つ日本に最もふさわしい世界の安全保障構想として、海外紛争には自衛隊の一部を使う待機部隊構想ではなく、自衛隊組織とは全く別組織、常時国連の指揮下で行動する「国連平和予備軍」(国連軍)の創設を、日本が提唱すべきである。

 憲法九条の崇高な目標をより明確にするためにも、第一項、

第二項に加えて、第三項に、

「ただし、前二項の規定は、国連の指揮下で活動するための国際連合予備軍を国連加盟国の一員として保有すること、さらに国連の指揮下においてこの国際連合予備軍が活動することを妨げるものではない」という条文を追加する。この第三項を追加することによって、自衛隊の性格と役割がわが国の「専守防衛」のためのものであることがより明確になるし、世界平和創出のための義務遂行が憲法の裏付けを持つことになり、有事法制などの関連法規の整備に関する国会内の思想的混乱も整理されることになるだろう

「外―外は国連平和軍」、

「外―内は自衛隊」、 

「内―内は警察」。

という三者の役割を明確にし、憲法の授業の中で、中学校の先生でも三分間で分かりやすく説明できる。

「戦争のない世界」を後世に残そうという憲法九条の精神をより強固に守り、中学生を含む国民の誰にも分かるように明確にし、その時その時代の政権によって妙な解釈がされる危険を除去するために、私はあえて憲法を守るための行動、「護憲的追加」を提唱したい。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

高齢者は地域の資源  20071119

十一月十七日に、横浜市青葉区の公会堂で「高齢パワーの会」主催の第5回の討論会が開かれ、「あなたが主役、顔が見える街づくり」と題して、講演が行われた。

 私の選挙区は横浜市の北部、田園都市線の青葉区と緑区だが、青葉区は新住民が多く、高学歴、高所得、高年齢の人たちが中心となった「三高都市」で雰囲気的には東京の世田谷区と似ている。

 その青葉区は男性の平均寿命が日本一ということで最近注目を浴びているまちである。ほとんどの人が名前も知らない岐阜県の村と町が一、二位ではあるが、人口二十八万人の青葉区の三位は、実質的に一位と考えてよいのだろう。

 青葉区では男性が長生きだが、隣の十七万人の緑区では女性が長生き。その原因は何か。青葉区の水が特に男性にいいのか、緑区の空気が特に女性の健康にいいのか、横浜市役所が現在調査中だが、結果はまだ発表されていない。

 世界の四大都市に住んで、その人々を観察してきた私の人生経験から考えると、それは多分、青葉区に住んでいる人は奥さんが御主人を大切にするから御主人が長生きし、緑区では御主人が奥さんを大切にするから奥さんが長生き。これは私の推理であって、科学的根拠は全くない。

 しかし、日本最大の都市の中で青葉区・緑区という私の選挙区の男性と女性が平均して最長寿命を誇るということは率直に言ってうれしいことである。地元の医師会の先生たちと、沖縄でもなく、出雲でも信州でもなく、なぜこのまちが長寿社会の最先端なのかを議論し合うだけでも、酒の味がうまくなる。

 「三高都市」と言っても、決して高齢者ばかりというのではない。横浜市十八区の中で毎年の赤ちゃんの出生数は十二年連続でトップ一位を他の区に譲ったことがないという、長寿力、出産力ともに一位。お年寄りは元気で長生き、赤ちゃんの数も多いという、少子高齢化問題を抱える日本にとっては、希望の星ともいえる地区である。その地区の元気な高齢者たちが結成したのが「高齢パワーの会」。

私も予定には無かったけれども、私の知り合いの人たちの集まりだからと、少しばかりお話をした。

 

高齢者は「歩く図書館」

 

日本の国家ビジョン、日本人の価値観が変わり、時代は大きく変わった。世界は「ものづくり時代」から情報が社会や政治を動かす時代、「情報社会」へと変わり、日本には「高齢長寿社会」の波が押し寄せた。

ヨーロッパでは八十年、アメリカでは四十年かかった「高齢化」現象が日本では二十年というスピードで進んでいる。アメリカの二倍、ヨーロッパの四倍の速さで到達し、社会のすべての仕組みが変わりつつある。
「ものづくり時代」のキーワードが「勤労と団結」であったのにくらべて、「情報化社会」と「長寿化社会」が複合した新しい時代のキーワードは「ゆとりと自由」である。

このことは一体何を意味するのか。それは、男性よりもはるかに高い女性の情報発信能力(おしゃべり能力)や、お年寄りの知的資産としての知識の時代の訪れである。ものづくり時代には役に立たなかった、女性のおしゃべりという素晴らしい能力が、はじめて世の中、人のために役立つ時代がやってきたのだ。

とかく、高齢化の問題については、六十五歳以上人口の比率、いわゆる高齢化率が高いと活力がなくなるとか、行政負担が大きすぎるといったマイナスのとらえ方がなされ、また、こうしたことを泣き言のように使っているが、それも大きく変わる。

アタマのギアチェンジが必要だ。高齢化率が高いことは決してマイナスではなく、むしろ、その地域には知識や経験の豊富な人的資源が多いこと、その都市の知的資産比率が上位にランクされることを意味している。日本より早く高齢社会に到達した欧米では、「高齢者は歩く図書館、その町で一人の高齢者を失うことはその町の一つの図書館を失うこと」と言われる。

 

「八掛け人生」の時代

 

 出雲市では大転換の年一九九一年に「高齢者憲章」を制定した。その席で私は東大名誉教授木村尚三郎さんの説を皆さんにご紹介した。今の六十五歳は昔の六十五歳と違って老年と言われる資格がない。第一に体力がありすぎる。第二にゆとりがありすぎる。第三に気力、意欲がありすぎる。したがって新しい定義は、二十歳から四十四歳までが青年、四十五歳から七十四歳までが壮年、七十五歳になって初めて老年と尊称される資格があると。

 私の持論も合わせて紹介した。人生五十年と言われた時代には、お正月が来るたびに一つずつ年を加えてもよいことになっていた。しかし今は一年おきに年を加える時代。そうしなければ、人生八十五年、九十年、九十五年、あるいは人生百年という声さえかかっている時に、昔の年齢と計算が合わなくなってしまったからである。
 しかし、一年おきにといっても、人によっては昨年とったのかどうかをすぐに忘れて、二年続けてとり忘れる人もでてくるから、私は「八掛け人生」の時代ですと話す。生まれてからの暦の上での年齢、つまり満年齢を八掛けすると大体昔の年齢に合う。八十歳の人は八掛けして六十四歳、七十歳の人は五十六歳ということになる。「体は八掛け、気持ちは七掛け」と話すと、そこで高齢者の人たちがにこにこと大きくうなずいて下さる。
「だから、もはや六十五歳で老人会に入会する資格は見直しましょう。もっと条件をきびしくしましょう」とその席で提案した。

 

六十歳で六つの宝

 

「それでは市長さん」と、老人会、いや慶人会の金本会長さんと石見副会長さんから逆提案があった。「老人会に青年部をつくったらどげでしょうか」。
 どげでしょうか、こげでしょうかと言われても私はびっくりした。青年というのは二十代、三十代の人を指すと思い込んできたかつての常識が、封建的、保守的、閉鎖的で有名な出雲市で、すでに大きく変わりはじめていたのだ。

 びっくりしたけれども嬉しくなって、「それでは日本で最初の『老人会青年部』をつくりましょう」と約束した。六十歳から七十歳は青年部、七十歳から本会員。その年の秋九月十五日に一千人の「青年部員」が集まり、設立総会が開かれた。
 入っただけで年をとったような気がするからと老人会入会をためらっていた、がんこ、へりくつ、意地っぱりの人たちが、「なに、青年部? ほんなら、わしがはいらにゃいかん」と続々加入者が増えて二千人を突破。二年後に発見された温泉の施設管理や利用客へのサービスは、市役所が「青年部」に委託し、その温泉施設は一般市民にも開放されているが、高齢者の健康づくりと奉仕活動の拠点となっている。

 一回目の青春と違い、二回目の青春は全く違う。六十年間蓄えた知識、経験、判断、人格、人脈、ゆとり、この六つのすべてをそろえている青春だからこそなんと素晴らしいのだ。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

 

「士農工商」  20071126

年末年始の風習は地方ごとに異なるものだが、山陰地方は酒を飲む機会も多く、酒飲み仲間の忘年会となるとそれこそ大変だった。年忘れと称してそれを理由に忘年会でしっかりと飲み、新年は新年でこれまた新年会でしっかりと飲む。

出雲市長に就任してその年の暮が近づいた頃、私が提唱して「新年会改革」を実行することにした。新年にいくつもある会合を少し再編統合しようではないか。例えばどの市にもあって大きな存在感のある三大組織、市役所、農協、商工会議所がそれぞれに新年会を催し、全く同じ人たちが三回出席することになる。

私が市政の基本方針の一つとして口ぐせのように言っていた「市農工商」の三位一体路線をここでも実現しようと、新年会シーズンがやってくる、市役所・農協・商工会議所が輪番で、合同賀詞交歓会を開くことになった。以来、出雲市では毎年この形式が新年会で踏襲されてきている。

人格・人権・名誉を傷つけ、差別感や侮べつ感を与えるおそれのある言葉を一般に差別語とか禁止用語、不快用語と言う。十年前の衆院本会議場で共産党議員の質問に対して、橋本総理が「それは下司のかんぐり」と応戦して議場が騒然となり、共産党が激しく抗議した。公式の場では滅多に聞けない差別的不快語だったからである。「下司」は「下種」または「下衆」とも書かれることで分かるように身分の低い者、心のいやしい者を意味すると広辞苑では説明されている。

 

時代が変えた士農工商

 

「士農工商」という表現もそれに近い、文脈によっては注意を要する言葉の一つである。封建時代の身分制度は江戸時代になって確立され、人口の七%の武士が支配階級、八四%の農民は年貢の負担者として次の身分に、工商は町人と呼ばれて、その下に置かれた。

私はその「士農工商」を「市農工商」と、武士の「士」の字を市役所の「市」の字に置きかえ、そして市役所を「市」民のお「役」に立つ「所」と解説して出雲市長選の演説を行っていた。出雲市だけではなくどこの地方都市でも目立つ大きな組織といえば、市役所、農協、そして商工会議所である。いわば町づくりの三つのエンジン。市議会、市役所職員はもちろん、農協と商工会議所をパートナーとしなければ市政の力強い、スピーディーな展開はできない。三者一体、市民一丸となって、都市間競争に打ち勝つのだと市民に檄を飛ばした。一〇〇%の市民とまではいかなかったけれど、七八%の得票、二期目は八七%の票を頂いた。出雲市の会頭は市長と全く同じことを、農協組合長は商工会議所の会頭と全く同じことを、そして出雲市長は農協の組合長と全く同じことを話すというのが、霞が関と島根県庁での評判となり、「市農工商」体制が確立した。

三つのエンジンの一つひとつが活発に動き、そして大事なことはそれがバラバラの方向ではなく同じ方向に向かって進んでいけば、十万人の都市といえども五十万人の都市と同じ活力、スピード、存在感が生まれる。そのために「市農工商」という表現は役に立った。

 

おんな、お年寄り、子ども

 

 「おんな、年寄り、子ども」という表現もまた注意用語である。弱いもの、役に立たないものの代名詞として長年使われてきたからである。

 私はこの言葉を逆手に使い、封建的、保守的、閉鎖的と言われた出雲市の市政の重点を「おんな、お年寄り、子ども」に置くことをキャンペーンした。市の管理職に女性を初めて登用し、女性のメンバーが三割以上いない審議会、委員会の設置・継続は認めないことにした。
 一人ぐらし、二人ぐらしのお年寄りの家庭をそのまま地域の中での老人ホームとする地域介護の「里家制度」。また、人生五十年時代の年齢と人生九十年時代の年齢では実感に大きな差が出てきている。その差を縮小するために年齢は二割カット、「年は八掛け気持は七掛け」。その結果、「老人会青年部」が誕生し、六十代の市民は青年部。町づくりの中心は青年会議所から青年部に移った。税金を使わない意識改革と町の活性化。

 中学校、小学校、幼稚園の子どもはすべて木造りの教室で育てる。木のぬくもり、木のやわらかさ、そして木の香りがまろやかな、いい性格の日本人を作る。そのために学校の「校」の字は木が交じわると書いてある。四五年以上たった庁舎は改築もせず今もそのままだが、学校にだけは金をかけた。中学二年生だけで結成した環境探偵団はいつの間にか県レベルに広がり、子どもの目線で市内の環境の良さ、悪さの変化を発見する。

 「おんな、お年寄り、子ども」が輝き出せば、弱者扱いの差別思想は、当然のことながら消えて行く。

私を出雲市長にという考えを持って私を呼びかえした人たちの中には、これをきっかけに大出雲市圏域に発展させよう、そのためには周辺市町村との合併も・・・という構想があったことは私も知らされていた。

しかし、大きい市から周辺に強要する印象を与えたのでは、封建的、保守的を画に書いたような土地柄だから、できる話もつぶれてしまう。

 

合併進めた逆並び

 

そのような合併構想には一切ふれないで、大社町とか平田市といった隣接市町村の商工会などでの講演を優先しながら選挙準備を進めていた。市長に就任してから挨拶に行くのはもちろん必要だが、予定者の段階から頭を下げて周りの先輩首長さんやその住民に挨拶しておいた方が、先ざきの難しい話しも進めやすくなるだろうと思ったからだった。

そこへジャスコ出雲店という地方都市にとってはジャンボ級の大型ショッピングセンターが完成し、開店日を迎えた。

その日、市内外から集まった客は出雲市の人口総数に匹敵する八万人。私が、これからの都市づくりの基本は「手をつなぐ出雲市」、「夜間人口よりも昼間人口を考えた町づくり」、「夜の枕の数よりも昼間の歩く足の数を増やそう」という演説をそのまま実現したような強烈なインパクトだった。

 そして商工会が先がけとなり、「出雲地域経済団体協議会」を発足させ、次いで農協の合併に進み、最後に役所同士の合併となって大出雲圏がようやく実現した。

 面白いもので、「市農工商」と言いながら時代的要求は言葉とは逆並びに「商工農市」と実現したことになる。その商工の中小企業に当たる風は近年特に厳しくなっている。

 私が中川経済大臣に指摘したことだが、国の予算措置で見ると、農業関係は百円の税収に対し一万円の予算が付けられているのに、中小企業は百円の税収で五円しか中小企業対策費が計上されていない。言いかえると、農業では百円が一万円に化けて、中小企業はでは百円玉を払うと五円玉が返ってくる。かたや一万円札、かたや五円玉になって、農業と中小企業ではなんと二千倍の差別が放置されたままである。

 事業承継、特に親族内承継には税制上の障害があって、日本経済を支えなければならない中小企業数が残念なことに年々減少している。 

 最近の東京税理士会で陳情を受けたときにも話し、中小企業総決起大会でも話したことだが、私は、世界三大都市といわれるニューヨーク・ロンドン・パリなどの外国の都市に二十年間勤務し、中小企業と大企業を数多く見てきた。その中には中小企業から大企業へと成長した企業が数多くあり、伝統を誇り、顧客・取引先の信頼の高い企業には親族で事業を承継した企業が多いことも見てきた。

 金融や投資の世界で例を挙げれば、ロスチャイルド、リーマン・ブラザーズ、ソロモン・ブラザーズ、ラザード・ブラザーズといった社名そのものにも親族承継企業であることがよく表われている。

 日本が世界の中で親族承継が最も容易であると誇れるのは、政治の世界だけ。国会の中で親族承継が四割に達し、今後も増加することだろう。

それに引きかえて、中小企業の事業承継には税制上の配慮が不足している。

 政治の優遇、中小企業の冷遇、この温度格差は早急に解消しなければならない。

 (衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

クマ減り、シカ泣く有害法案  2007123

自民党、公明党の議員が準備しているある法案が衆議院で問題になっている。農山漁村地域においてクマ、シカ、イノシシ、サル、カラスなどの鳥獣による農作物の被害が近年深刻となってきて、その被害が年間二百億円に達し、その防止策を都道府県知事に権限を与えて、自衛隊の出動までも視野に入れて、実施しようということだが、たしかに垣を作って畑の農作物を守ったりするコストと、人家の近くにまで徘徊する野生動物のために身を守らなければいけないなど、農作物支援のために何かすることが必要なことは出雲市長時代から私も実感してきている。

 

有害動物というキメツケ

 

農家のご苦労をなんとかしなかればならないという思いと同時に、私には二つの複雑な思いがある。一つは法案の「有害鳥獣」という四文字について、もう一つは、この地球という人間を含むすべての生物が共有する場所を、人間の論理や勝手だけで駆除、捕獲、殺生してよいのかという疑問である。

 まず、「有害鳥獣による農林水産業等に係る被害の防止のための特別措置に関する法律案」の有害鳥獣について。クマとシカが有害鳥獣の具体例として挙げられることが多いが、このような動物は何万年も、われわれ人類よりも早くその地に住んでいたかも知れない、いわば先住民族であり、その地に生活するために移住してきた人間族と共生する宿命と権利も持っている。

 人間が人口を増やし、他の地域にまで食糧を提供しようと住居地や耕作地を拡張した結果として、彼らの山林地面積が狭くなり、人里へ餌を求めてやってくるようになったのが主因であって、これらの動物のすべてが急に凶暴性や攻撃性を持つように変身したわけではない。

 不幸な家庭の原因で少年が罪を犯したからと言って、「有害少年」呼ばわりをしてはいないように、一般名詞として、その対象動物、たとえばクマならクマ、シカならシカすべてが凶暴性を有するような名称を付することに私は反対である。

 環境省が担当する「鳥獣保護法」では、鳥獣は人間と、そしてその地域と共生すべき対象としてとらえており、同じ政府の中で同じ動物を、片や農林水産省は捕獲駆除の対象として敵視し、片や環境省は保護の対象とみなして、動物の居住環境の保護、改善に努力し、生物の多様性を守ろうとしている。その調和点を工夫しながら追及しなければならない時に、「有害鳥獣」という表現はそのような生物の多様性を尊重する精神を真っ向から否定するような誤解を与えかねない。

 見方を変えれば、これらの動物は人間の勝手な生き方や農耕のあり方の結果、被害者となっていると考えることもできる。

 

日本は動物好きの国

 

 古来から日本は、植物のみならず、動物を含むすべての自然と環境との共生を最も心がけてきた民族である。「山川草木悉く仏性あり」という大乗仏教の信者が多いのもわが国の宗教の特徴だし、山にも川にもどこにも神さまがいらっしゃるという素朴な思いは日本中どこにでもいまだに存在し、神社の森は鎮守森として特別な敬意を払われている。

神社を守るコマイヌの姿、サル・カニ合戦や桃太郎の童話に登場するサル・イヌ・キジなどは子供の心にしっかりと住み着いて一生涯離れることがない。

 日本では、熊や鹿といった文字が、人名や社寺にも多く使われている。熊という文字を含む日本人の姓は、熊谷組創業者の熊谷家など百以上もあり、また、鹿という文字が使われている姓も鹿島建設創業者の鹿島家をはじめ、百以上の姓がある。

さらに、日本全国に三千社を数える熊野神社(本山は熊野三山)以外にも「荒熊神社」「熊按神社」などがあり、「熊」の字が使われた神社名は日本に約四千社もあり、「鹿」の字が使われている例としては、有名な「鹿島神宮」をはじめとして約七百の神社と、寺には、「鹿苑寺」(金閣寺の正式名称)などがある。このように、「熊」や「鹿」が私たちの身近に数多いことに驚かされる。

私は猟友会員たちに頼まれて、出雲市南部の名勝立久恵峡に「鳥獣慰霊碑」を建立したこともある。

 自然との共生が長い伝統として精神構造にしみこんでいるからか、童話や神社の中だけではなく、日常の家庭の中にもワンちゃん、ネコちゃん以外にも動物が多数住みこんで、この欄にも紹介したことがあるが、ライオンが歯ブラシを作り、キリンがビールを売り、カメの子がタワシを作り、ゾウがお湯をわかし、タイガーがお湯をあたためる。トンボが鉛筆を作り、クロネコがお歳暮を届けて、ペリカンが引越しの手伝いをする・・・。いろんな動物が日本ほど活躍の場を与えられ、子供に親しまれている国は世界でも例がない。

 

命あるものを大切に

 

 私の身近な例だが、ワンちゃん、ネコちゃんの命を救うために、出雲市長時代には保健所に保護拘留されている犬・猫を引きとってくださる方をさがすために、ある日曜日にオープンし、多くの方に呼びかけて家族づれで来てもらった。

 それぞれの家族との出会いをさせて、それならこのワンちゃんをというところで、私が命名する。命名札とワンちゃんとご家族が一緒に私と記念写真をとる。

 ジョンとかビクターとか、市長さんに命名してもらったんだと子供たちが喜び、おそらく近所の人たちにも自まんをして大切にしてもらえるだろうと思ったからだ。

 来年は日本で七月にサミットが開かれ、その主要なテーマは環境。地球温暖化が人間のみならずあらゆる生物の生存に悪影響を与えているときに、全世界が立ち上がって何をできるか、主催国日本の責任は重い。

 しかし、これこそ日本に最もふさわしい役割ではないか。今、地球が病気になっている。急に熱を出したり、怒りだしたり、泣き出したり・・・。その地球には診断図もなければ、医者もいない。だからこそ、日本が地球のドクターを目指す。この役割だけは他国に奪われてはならない。日本にとって最高のはまり役であり、それだけの思想と伝統と慣習と技術と実績があるからだ。

 山川草木あらゆるものに神さま、仏さま。動物は数限りなくどこの家庭にも入り込んでいて、獣医さんだけでなく、千六百人の「樹医」さんまでがいる。日本が提案した「地球地図」という地球診断図は十三カ国で始まり、今は百五十四カ国、地表の九十五%がカバーされている。

 この伝統と実績を踏まえて、戦争の時に駆けつけるのは遅いが、平和な時にはいつも汗をかいて黙々と地球の生命を守るために努力しているのは日本だという認識を、三十年、五十年かけて世界中に広めること。そんな日本をどの国が攻撃しようとするだろうか。世界中の国が日本を守ってくれるだろう。

 それこそが日本にとって最高の集団的安全保障であり、子孫に残す最高の資産ではないか。

 「有害」という言葉こそ有害だ。法案には人間と動物との共生の理念をもっと徹底するとともに、有害という名前を法案からまず駆除してほしい。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

アジアに広がる人権問題  20071210

 近年、アジア諸国を中心に、経済発展と併行して貧富の格差が進行し、人身売買と強制労働の増加が深刻な問題となってきている。十二月七日から四日間台湾で、民主党も加盟している自由主義インターとアジア自由民主連盟の共催で人権問題会議が開催された。

人身売買を中心に、人権問題全般を議論し、国際的な相互理解を深め合って、国際的ネットワークでアジアの女性と子供の人権を守ろうという意義深い大会だったから是非とも代表を派遣したかったが、私も含めて国会会期中のとりわけ衆参両院ともに微妙な時だったので、結局私の名前で党の意見を書面で提出し、議論に間接的に参加させてもらうことにした。

 

拉致も人権問題

 

日本の立場からは人権問題ではとりわけ北朝鮮による拉致の問題を、人権問題としても各国に訴えておきたかったからでもある。

 拉致家族再会の期待に日本中の人がテレビに釘付けになっていた時、二〇〇四年五月二一日の夜、有楽町の東京国際フォーラムの大ホールでは若い人を中心に三〇〇〇人を超える参加者を迎えて、ユニセフ国際シンポジウムが開かれていた。子供の権利擁護に取り組む日本ユニセフ協会の大使をつとめる歌手のアグネス・チャンさんや経済評論家の浜矩子さんがパネリストとなって、子供たちを人身売買から守るためのシンポジウムだった。

 ユニセフや国際労働機関ILOによれば年間四百万人が人身売買の犠牲になっており、そのうち十八歳未満の子供が一二〇万人と推定され、現代の奴隷制度の中に組み込まれた児童たちは、安い労働力として、臓器売買や売春の対象として、世界各地で取引されている。

 また、人身売買と並ぶ大きな問題である強制労働に強いられる人は全世界で一二三〇万にも上り、このうち、アジアの人々が九五〇万人を占めている。強制労働も形を変えた奴隷制である。

 十二月ともなればニューヨークの町はクリスマスの飾りつけで華やかだ。マンハッタンのショーウィンドーだけではなく、普通の家々でも両親と子供たちがクリスマスの飾りを一緒に買いに行くのを楽しみにしている。

 

児童対象の強制労働

 

 そのニューヨークであっと驚くような暗いニュースが師走の町を駆けめぐった。有名店ウォルマートをはじめ多くの小売店で売られている中国製の飾り付けの製造に、十二歳の児童たちが一時間三〇円の賃金で週一〇〇時間以上の強制労働を押し付けられていることをニューヨークの人権団体が発表したのである。

 クリスマスを喜ぶアメリカの幸せな子供たちと対照的に、同じ十二歳でありながら学校にも行けず強制労働に服している子供たち。あまりにも残酷なニュースだった。

 今では死語となっているはずの奴隷の数は、英国の学者ベイルズによれば、固く見積もって二七〇〇万人、別の活動家の推定では二億人とも言われている。

 

奴隷制は消えていない

 

 古代のエジプト、ギリシャ、ローマ帝国のすべてが奴隷制を社会組織に組み込んでいた。アメリカ建国の父たちも奴隷制容認に追いやられたのは、奴隷制が当時の北アメリカの多くの人間に多大な利益をもたらしていたからである。

 一八六三年、リンカーンの奴隷解放を掲げた南北戦争に北軍が勝利して消滅したはずの奴隷制は、消滅していなかった。消滅しないどころか、グローバリズムという国境の自由化と巨大資本の利益追求のために、姿を変えた奴隷制はしっかりと根付き、増加の傾向にさえある。

 近代化には、医療や教育の向上という好ましい影響もあるが、エリート層に富が集中すると、その土地は輸出用換金作物の生産に使用され、貧しい人はますます弱い存在となる。奴隷制そのものや、奴隷的労働力を利用しているのはいずれも民主国家を標榜している国であり、それらの国を代表する巨大企業群である。しかも、二〇〇四年五月から始まったEUの拡大で、この動きに拍車がかかるのではないかとさえ懸念されている。

 北朝鮮による拉致問題に関心を含めると同時に、世界の各地で白昼堂々と行われているこのような人身売買という形をとった「児童拉致」が、経済力格差の拡大とともに広がっていることにも、一人でも多くの人が真剣に取り組むべきだ。

 資本主義の利益追求重視の経営姿勢はグローバリゼーションの進展とともに益々加速し、効率化、高利益化を急ぐあまりに、人間を資本財(HumanCapital)のようにみなす危険がある。

 人間は機械ではない、人間は人間であるという当然の常識を取り戻し、人間性尊重(HumanValue)の社会に変えるためにも教育を重視すべきだ。

 第二次世界大戦中、日本軍が韓国を始めとするアジアの女性を強制的に慰安婦にしたという問題は、日韓の戦後保障の問題とも関連し、一九九二年夏に河野洋平官房長官が政府の関与を公式に認め、九五年七月に村山富市内閣は女性のためのアジア平和国民基金を発足させ、韓国、台湾、フィリピンなどの元慰安婦に、政府ではなく民間基金で保障するとした。しかし韓国では不満が強く、償い金を受け取った元慰安婦は九〇人余と当初目標の三分の一以下で、償い金の支給は難航を極めた。二〇〇二年五月、同基金は償い金を渡す事業を終了。元慰安婦に医療・福祉を提供する事業は継続している。

 五年間の小泉外交の目玉であった対北朝鮮外交は破綻に終わったといえよう。

 〇五年二月十一日北朝鮮が核保有するなかで焦点は六者協議に移り、拉致問題の行き詰まり、六者会議の停滞のなか、〇六年七月の北朝鮮によるミサイル発射も加わり、関係打開の道は閉ざされたままで、解決への道は依然として見えてこない。

 

政界にも人身売買が

 

 日本の政治の中にも人身売買類似行為が存在している。

 日本歯科医師連盟から自民党議員への一億円献金に代表されたような、政治とカネのスキャンダルは後を絶たない。一億円で政策を変えさせることができたということは、政権を持つ自民党の政策に一億円という値段をつけて買い取ったということ。もちろんこれが初めてでないのは国民のすべてが知っている。兜町に証券取引所があるように、永田町には政策売買の取引所がある。ただ兜町と永田町の違いは、兜町の取引所では誰がいくらで取引したかが公開されることになっているが、永田町の取引所では迂回献金などという手法を使うことによって誰がいくらで政策を取引したかが秘密にされていることだ。

 国民の一票一票をもとに選挙で誕生した国会議員をまとめてカネで買い付けるやり方は、まるで人身売買そっくりだ。永田町の人身売買禁止法案も早急に成立させ、政治の浄化を断行しなければ国民の信頼をとりかえすことはできない。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

 

「虚偽答弁」と「偽装年金」  20071217日 

 最後の一人まで責任をもって支払う」と総理が声を張り上げれば、国民はそれを真(ま)にうけて、投票しただろう。しかし、「選挙の時だから・・・」という町村官房長官のお正直な解説を聞いて、今ごろやっと目が覚めた有権者もあったに違いない。

 

最後の一人、最後の一円まで

 

 「最後の一人まで」と絶叫する総理のそばで、年金を担当する大臣が 「最後の一円まで」と言葉を重ね、それを新聞・テレビが報道すれば、やはり日本の年金は大丈夫と思い込むのは無理もない。

 それだけに責任はなおさら重い。それも官房長官が教えてくれた「選挙どき」という、いわば給料日の夕方を狙った作戦だったから効果は抜群だった。

 最近では玄関の外で聞き耳を立てているかもしれない警官を警戒して、この大臣は小声で「意気ごみです」とか「目ざします」というマス言葉を添えているようだが、今さらのような「ゴミ」や「目ザシ」の言い訳はなんの役にも立たない。

 「選挙のとき」の言葉だからこそ、より大きな意味があることを踏まえれば、まれに見る計画的、意識的な詐欺行為と言わざるを得ない。

 人をだましてお金を集めた人は「詐欺師」と呼ばれて刑務所に入る。人をだまして票を集めた人は「センセイ」と呼ばれて国会に入る。おかしいではないか。この国家権力とマスコミを利用した大型詐欺犯罪を、さあどうするのか。

 まず安倍総理が最後の一人までと国民に約束したその根拠、裏付け資料はどこにあったか、「最後の一円まで」と呼吸を合わせて言葉を補充した舛添大臣にはその資料と判断基準がどこにあったのか。

 お得意の「アタマよりはまずクチ」に言わせたセリフをそのままに、全国の党員にマニュアルとして大量に印刷し、意図的に被害の大量拡散を進めた中川自民党幹事長と、合わせて三人を証人喚問し、国会で「責任をもって」答弁させなければならない。

 国民のほとんど全てが「できっこない」と思っていることを充分に知りながら、「最後の一人まで」と総理として言い切って、選挙ビラにまで印刷させた責任、そのうえ、「あれは選挙のときの言葉だから」と言い訳しようとする非常識。ともに政治家として許せない。

この問題が大きく国会で、テレビで取り上げられている時に、公明党の幹事長が「すべての国民」、「すべての国民にですよ」、年金メールが明日から届いていくんですよ・・・という発言を繰り返している。

年金に加入していたかどうか自分でもはっきりしない人は、「全ての国民」の中の一人として、自分にも確実にメールが届くと信じ、安心し、期待するのは当然だ。本当に安心させて大丈夫なのか。生きている国民なのに、メールが届かなければ死んだものとしてあつかわれたことになって、また余計な不信と不安を拡散させることになる。 

 

日本の年金は偽装設計

 

 国会で問題になっているのは「虚偽答弁」だけではない。

それよりももっと本質的で大事なことは、この機会に日本の年金制度が安心できる建築かどうかを議論することだ。

日本の年金は、結論を先に言えば、四十五年前に行われた偽装建築であり、賞味期限も切れているのではないかと思う。

「消えた年金」探しが大切なことは誰にも分っているが、それと併行して、いや、それ以上に必要なことは「消えない年金」、「消せない年金」を一日も早く政府と国会がつくり上げることではないか。

世界で最も充実していると自称してきた日本の年金には、実は二つの危ない仕掛けがあった。

 一つはアメリカとヨーロッパの二つをお手本にして、その「よいとこどり」をしたこと。

 少なく払って少なく受け取る米国型と多く払って多く受け取る欧州型。米国型と欧州型をのりづけしてできあがったのが、少なく払って多く受け取る欧米混合型という無理無理建築。

もう一つの仕掛けは年金支払年齢を当時の平均寿命の六五歳にセットして設計したこと。それが今では八十歳をこえてしまったから大変だ。

確定した金額を毎年必ず受け取れるというシステムを「年金」という。辞書にはそう書いてあり、世界の常識でもある。

確定した金額を給付することを約束してお金を集めた国家がそれを実行しないなら、それは詐欺とどこが違うのか。

そのような詐欺国家とならないために、そして七十八%に高まっている年金不信を一掃するために、私は年金の新しい仕組みを五年前から提案している。

 

国民皆負担、皆年金

 

大原則は「皆負担、皆年金」。

職業や会社の規模や男女の差別を一切取り払って、年金は国民共通の制度に一本化し、その上で、消費税を財源とする国民基礎年金と、資産と所得と意欲に応じた自己選択積立金を財源とする積立年金との二階建てにする。

一階部分の基礎年金はだれもが同額六万六千円を受け取る。

そのために消費税を、現在の五%から二年に一%ずつ上げて十年後に十%として、年金保険料は徴収しない「減税付きの増税」。消費税が年金という名札をつけて財布に帰ってくる。

国民一人ひとりに年金ICカードが一枚ずつ渡され、運用リスクなし、天下りなし、管理コスト・ゼロ、世界一透明公正な年金システムが完成する。

 自分がいくら払ったか、いくら受け取れるか、確かめたい人は、「年金カード」を銀行や郵便局の預け支払い機に差しこみ、すぐにのぞけるようにする。

この新方式は「年金国債」を使うから、どの政党が政権党になろうと、保険料が引き上げられるとか、年金支給額を削られるということがない。

一方、既存の年金制度と新制度が並存する期間については、新方式への移行者については、支払い済み保険料を調整して上乗せする。

 番号化し、カード化している例はアメリカはじめ、外国にもあるが、日本にはそれが最も必要だと思う。

 我々が名前に使う漢字には書き方、読み方が色々あって、入力、転記するたびにミスが生じる確率が、外国よりも格段に高いからである。

 そしてもう一つは、大正も昭和も平成も生き抜く「明治四代女」まで出現遊ばされ、入力時の西暦との混乱や日本年号相互での誤記も外国の年金制度にないミス発生要因となっている。番号化を避けている限り、ご存命中なのに年金記録の中で早ばやと不慮の死をとげてしまう不幸な人が出てくる。

 番号化を避けてこの問題を解決しようと思えば、我が国の文化を変えて、名前は全てカタカナにし、年号は西暦だけを使うようにせざるを得ない。

 年金番号を採用するか、我が国の文化を捨てるか。

 私は番号制という合理的で安心できる制度を導入して日本の安心を守り、日本の文化を守るべきだと思う。

 

(衆議院議員、元出雲市長)

 

 

日本一のゴミ男  20071224

 東京にはゴミが多い。受験のために初めて東京の町を見たときの印象だった。

 ゴミの多いところほど文化度が高い。「ゴミは文化のバロメーター」、そう言っていた時代があった。大量生産、大量販売、大量消費、大量廃棄……。東京はアメリカ型文明を追いかけるシンボル都市だったころのおとぎ話である。

 

ゴミ都市のお手本

 

 東京を見て、そして私は世界の三大都市と言われたニューヨーク、パリ、ロンドンにも住んだ。

 どの都市も人口と消費の増大に比例するゴミの問題に頭を痛め、多額の税金を収集と処理に投じていた。

 その中で、イギリスは公共心が高いせいもあって、町の中のポイ捨てが少ない。自販機が少ないこともその理由だろう。

 フランスもきれいな町並みを自分たちの生活の場所と思っているから

ゴミが目立つというほどではない。

 パリ、ロンドンに比べると、ニューヨークの町はゴミがあふれて                                                       いた。

 アメリカの都市の九九%は清潔な都市だが、ニューヨークだけは例外中の例外で、世界中からやって来る旅行者のせいもあるが、住んでいる人たちの大半が、ゴミはたくさん出すもの、ゴミはヒトが片付けるものというゴミ感覚。まさに大量消費、大量廃棄のお手本の都市だった。

 ニューヨークの現象は二十年もすれば東京に、東京の現象は二十年すれば出雲にやって来る。早く来てほしい文化もある。スポーツ、芸術、教育などが地方都市でも盛んになり、享受できることはいいことだ。

 しかし、来てほしくない、できるだけ遅くきてほしいものもある。それが、犯罪とゴミと財政難だ。

 「強く やさしい出雲市」をめざして、ハード事業のみならず、福祉カード・児童カード、短大設立、高齢者介護の新制度などなど市役所の業務は増える一方で、そのための財源も必要になってくる。かといって税金を上げたり、職員の定員枠を安易に引き上げることはできない。

 「カネがなければチエを出せ」。大幅な行政改革を思いきって実施しようと、市役所内部に業務改革研究会が設けられた。 

 五つの業務を対象に、民間委託または民営化で、サービスを低下させない、しかもコストダウンが実現できる、従事していた職員も人手不足の分野に有効に配置できる、この三つの条件を満たせるならば、行政のリストラに踏みきろうというものだった。

 外部の専門家の分析も参考にし、更に念を入れて、市民の代表十六人の審議会でも慎重に検討し、その答申を受けて私は次のように決断した。

 学校給食センター、保育所、幼稚園は民営化も民間委託もせず、市が引き続き直営し、それどころか更に機能やサービスを充実する。

 典礼業務は民営化する。

 ゴミ収集は、全量、民間に委託する。一部の職員を民間収集会社の指導、監督や翌年四月から始まる分別収集その他のゴミ対策専門指導員として留保するが、残りの職員はすべて他の部課に配置する。これだけで年間四千万円のコスト削減が期待できる。

 三十人の議会で多数を占める二十二人の自民党議員と協議しながら、以上のような行政改革に踏みきることにした  

 

ゴミ課長

 

 ゴミの減量と収集。これだけは市民の協力が得られるかどうかが鍵となる。後手にまわれば、役所がいくらカネを使っても解決できず、深刻さは増すばかり。税金だけ使ってチエを使わない役所仕事では追いつけない。逆に先手をとれば大してチエもカネもかからない。市長に就任したときに、日本一のダメ男と言われたくないが、日本一のゴミ男と言われるようなゴミ行政をやってみたいと、秘かな思いを抱いていた。

 時たまゴミ収集に参加して、その終着点で私は井戸ばた会議ではなくゴミばた会議を開いていた。近所の奥さんが朝の片づけを終わって、エプロン姿のままで十人、十五人と立ったままで私を囲んで、市役所のゴミサービスについての不平、不満、グチ、提案。それを私はゴミと一緒に頂いて帰ってきた。

 あるゴミばた会議で一人の奥さんのつぶやきが私の耳に入ってしまった。「ゴミをたくさん出す人からはおカネをとることにしたらどうかしら」。

 二年前にはそんな発言もつぶやきもなかった。わずか二年間でゴミに対する市民の意識が変わっていた。

 そのつぶやきを聞いて私は勇気がわいてきた。

 まずゴミの組織を分かりやすい名前にした。環境保全課あり、環境美化係あり、環境衛生課あり、一体どこにゴミの苦情を持ちこむのか、市民も混乱する。私は分かりやすく「ゴミ課」とした。子供にもすぐに分かる。その下に「減量係」と「収集係」。減量係はゴミが少なくなるように指導、工夫、監督をする。ゴミのダイエットだ。収集係は出たゴミが迅速に処理され、便秘を起こさないように。ゴミのダイエットと便秘の二つの係を備えてゴミ課と、自信を持って発表した。

 夕方、人事課長がやってきて、「ゴミ課だけはなんとかならんでしょうか」と言う。確かに、「うちの主人はゴミ課長です」と言う奥さんの気持ちを想像すると、人事課長の考えももっともだ。そこで「ゴミ対策課」と修正した。

  

ゴミこそ行政のだいごみ

 

 この新設された「ゴミ対策課」は市民にも歓迎された。

 第一弾は、平成三年七月一日を期してはじめた、「ムダな包装やめましょう」キャンペーンである。各商店に子どもにもわかりやすいステッカーを張ってもらった。女性中心に各団体に呼びかけ、ステッカーのない店では買いものをしないように訴え、わずか二日間、四十八時間で市内のほとんどの店がステッカーを申し込んだ。協力しない店にはお客さんが来なくなるからである。

 第二弾は、平成四年の四月一日。出雲市民はゴミ戦争をはじめた。湾岸戦争には参加しなかったが、出雲市民は子どもからおばあちゃんに至るまで、全市民がゴミとの戦いに参加した。

 出雲市はゴミを無料で集めていた。だから市民は好きなだけゴミを出す、ゴミの出し放題。市役所はゴミが欲しいんじゃないかと思っていただいているのか、とにかく皆さん一生懸命出してくださる。

 冗談ではない。市役所の職員はゴミが欲しくて走りまわっているのではないことをはっきりさせるために、有料化に踏みきることにした。

 所得とゴミは正比例する。収入が多いから買いものが多く、多くのゴミを出す。そういう人のゴミを、収入の少ない人や、ゴミを出さないうにしている人の負担で集めるのはまちがっている。

 年間百袋だけを各家庭に無料配布し、特殊材質で作ったその指定袋以外は回収しない。

 ゴミ袋を買っていた人にとっては有料化どころか、無料で袋を貰えるから無料化である。ゴミを出さないように努力して袋を使い残せば、一枚四十円で市が買い取るから、そういう家庭には新制度は報奨金付きのシステムとなる。ゴミが一袋減れば市のゴミ処理費用は百二十円節約できて、その三分の一を協力した人に還元できるからだ。

 多くゴミを出す人は例えば九月に袋がなくなると、十月からは一枚四十円で購入しなければならないから、そこからは有料となる。 

 分かりやすいから、すぐに結果が出てゴミが二四%減ってしまい、ゴミ予算の使い残し。ゴミ収集を民間委託したコスト節約分と合わせて年間一億円近いメリットを、出生祝い金に充てることにした。三人目が生まれたら三十万円、四人目のときは四十万円、五人目のときは五十万円。何人目のときは何十万円か、すぐに「暗算」もできるし、「安産」もできる。

 初期の目的を果たした出雲市のゴミ行政は、いま新市長と職員の手でさらに改良され、前進が続いている。

 「ゴミこそ行政の醍醐味(だいゴミ)」との思いを大切にしながら。

 

衆議院議員、元出雲市長)

 

 

温泉と兵隊  20071231

明日はもうお正月という、今日の大晦日。ふるさとを目指して出発された人もあれば、あるいはご家族だけで一年の汗を流すためにゆっくりと温泉でお正月をお迎えの方もいらっしゃることだろう。

 大晦日の今日は、読者の皆さんに出雲市のゴミから生まれた、いや性格に言えば、ゴミ処理対策のごほうびとして市民が頂いた温泉の話をご紹介してみよう。

 

都市の格付日本一

 

 証券や金融の関係者の間では、数多い投資対象の中で、どの国、市、あるいは会社の債券や株式が安定度、信頼度、成長性、収益力といった点で優れているのかを、点数や記号で表示している。

 ノルウェーの首都オスロ市は、産業力、市の資産、税収、政治的安定度等々を評価されて、欧州の利の中で唯一の「トリプルA」という評価を誇りにしていたし、そのすぐ隣の国デンマークの首都コペンハーゲン市は、観光客の人気はこちらのほうが上と思われるが、金融界ではオスロ市の後塵を拝し、Aが一つの「シングルA」という評価だった。

 BBBの上がA、その上がAA、そして最上級がAAAとなり、借入利率が最も低い、最も長期の資金を手に入れることが可能になる。ということは、同じ道路を造るにしてもオスロ市のほうがコペンハーゲン市よりも安く建設できるということになる。

 三十年間、そのようなものさしを使って政府や都市の仕事をしてきた私には、都市の資金調達を引き受ける立場からの目はあっても、そこに住んでいる市民の立場で物差しを作ってみようなどと思ったことはなかった。

 全国七百の市を住みよさという観点から評価すると、どこが日本一の市だろうか。東洋経済研究所が十五の指標を選んで比較、検討した結果が一九九三年の春に発表された。

 東洋経済研究所の調査は、格付け専門機関の手法を使い、住民本位の行政を目指す新たしい都市の時代という認識に立っており、全国の自治体関係者のみならず、霞ヶ関の中央官庁にも、これからの国土づくりにおおきな指針となることは間違いない。

 発表された結果では、トリプルAの市は一つもなかったが、ダブルAの市は九市、その中で最高点は七・二七の出雲市、富山市、駒ヶ根市の三市だった。

 確かに、出雲市というところは、すべての自然に恵まれている。山があり、海があり、大きな川があり、湖があり、そして山陰一の広い平野がある。五つのものすべてに恵まれているから、自給自足が可能。いつ鎖国経済に戻っても困らないという点では、ヨーロッパの国の中でフランスに似ていると私はいつも市民に語ってきた。それだけ恵まれている出雲しだが、たった一つ、自然の恵みに漏れているのは、熱い温泉が湧き出してこないということだった。この点もまたフランスに似ている。

 

温泉ごほうびに

 

 その熱い温泉が湧き出す日がついにやってきた。

 前市長の時代から市内の神西、神門両地区にまたがる山間地域を候補地として、斎場の建設計画が進められていた。両地区の住民の十分な協力が得られず、難航した事業だったが、イメージを気にする一部の人たちに配慮して、民家のない両地区の境界一帯を「平成町」という新しい町名に変更するなどの努力を重ねて、ようやく建設が始まった。

 地元の協力条件には、住環境整備のための野球場、テニスコートのほかに、温泉を掘ってほしいという要望があった。昔は温泉が湧いていたという伝説もあったらしいが、近年の調査では、湯は出ないという結果が出ていた。しかし、四年前に山口県岩国市から来たおじいさんが柳の枝を使って出雲市内の何か所かを調べたところ、ここからは温泉が必ず出るというご託宣があったと地元の人は主張する。またある人は 私のところにやってきて、地図を広げながら、「市長さん、ここでは冬になぁと、えのすすが出てきて、ひる寝しちょうますけん、温泉が出ぇことはまちがいあぁましぇんけん」と私に決断をせまる。

 それでも私はゴー・サインをださなかった。孤や狸にだまされたという話はよく聞くが、猪にだまされたという話はきいたことがない。えのすすのひる寝ぐらいで温泉を掘って、もし出なかったらどうなるか。あの市長さんはえのすすにだまされたといつまでも語り伝えられるのはかなわない。しかし、斉場建設のためには決意せざるを得ない

 温泉が出たりしたら、また余計なカネがかかるから、掘るだけは掘るが出てくれないほうがいいかも、ぐらいのつもりで予算を計上した。

 突然のように湧き出したのがそれから一年後のことだった。五七度という高温、毎分三百八十リットルと大量で、神経痛、高血圧症、外傷、リウマチ、腰痛、動脈硬化、冷え症に効果がある。高温、大量、良質の三拍子そろった天の恵み、いや「地の恵み」を平成の時代に発見されたから「平成温泉」と名づけた。

 

 温泉がなくても日本一だった出雲市は「温泉つきの日本一」の市となった。管理と運営は、日本の高齢者組織で唯一の「青年部」を持つ、六十歳から七十歳までの市民千八百人で組織されている出雲市慶人会青年部に委託することが内定していたが、オープンまでは湯が毎日涌き出ていてもったいない。

 

自衛隊が拉致が給湯出動

 

 年末を控えたある日、市役所の「財産活用係」と布野収入役、樋野総務部長、長谷川総務課長がやってきた。市内十一か所の老人ホームと障害者施設すべてに温泉を配達したい、お年寄りや恵まれない人たちに温泉を喜んでもらいたいのだと。

 発想はすばらしいが、市役所には温泉を運ぶ態勢などあるわけがない。市内をぐるっと見回すと、それができるのは自衛隊だけだ。そうだ、自衛隊の隊員さんに頼んでみよう。引き受けてもらえるかもしれない。そういう思い付きを勝美治司令に相談したところ、出雲駐屯隊が引き受けましょうという返事が翌日返ってきた。

 

 市長に頼まれて温泉を配達しますというだけでは問題があるだろうが、勝司令には、「災害派遣、給水支援」訓練として実施しますという知恵があった。

 給水タンク車両三台が出動して 「給水訓練」は年末とお正月に行われた。溢れ出る温泉「災害」に出動した隊員たちが、出前配達した温泉が、おじいさん、おばあさんたちに喜ばれたことは言うまでもない。

その日の新聞の写真に温泉を楽しんでいるおじいさんの笑顔が大きく写っている。その笑顔もいいが、しかし、そのそばに立っている自衛隊員の笑顔が素晴らしい。「喜ばれる喜び」があった。

 世界中の「軍隊」のなかでも、温泉を運んでくれたのは出雲の隊員さんたちだけだろう。

心やさしい隊員さん、温泉を教えてくれた猪たちに、私は今でも感謝している。

 神門のいのししは、その後、昼寝の場所をどこに見つけたのだろうか。

 その熱い温泉が湧き出したのが同じく一九九三年、住み良さ日本一が発表されてから二十五日後のことだった。温泉つきの日本一になり、市民は大喜び、しかし、苦労話がなかった訳ではない。